秋分、旧暦葉月13日





 ラザク先生の長男ズルキフリーさんの広島訪問のYouTubeに一人の穏やかで優しい老婦人が出てくる。今年100歳の栗原明子(めいこ)さんである。被爆後広島文理科大学校内でラザク先生やオマールさんたちと野宿をした方だ。

 8月7日から僅か1週間余りのことだったにもかかわらず、その思い出は81年も色褪せることなく彼女の中で生き続けてきた。父も母も見つからず(母は数日後に見つかる)人生で最も辛く、苦しい時、栗原さんは廃墟の中で留学生たちと歌を歌って励まし合って過したのだった。栗原さんはその時教わったラサ・サヤンという歌を今も覚えていて、YouTubeの中でズルキフリーさんと口ずさむ場面がある。

 2年前に明子さんの娘が『明子 被爆者である母のこと―南方特別留学生との友情』と題する絵本を出版した。広島へ行く前に藤嵜さんが私の分も求めて送ってくれた
。

 以下絵本の一部を引用する

 

そこで(広島文理科大学)、8人の留学生に会いました。彼らは校庭で野宿をしていました。その内の6人は南方特別留学生です。彼らは自分の体験を日本語でゆっくりとていねいに話してくれました。みんな気さくで、すぐに打ち解けました。

 校庭にはサツマイモが植えてありました。明子たちはそれを掘り、まだ親指程度しかない細い芋をひろってきた鉄兜を鍋にしてゆでて食べました。

 その内の何人かは怪我をしています。でもこんな状態なのに、彼らはほがらかで、多くの日本人の負傷者を助けました。

 留学生たちはなにかと気にかけてくれ、「メイコ、メイコ」と呼んで、お父さんが見つからなかった時も「また明日があるから」「気を落とさないで、元気を出すんだよ」となぐさめてくれました。

 明子は安心して心強ささえ感じ、すぐに友だちになることができました。みんな、明子と同じ19歳か20歳くらいです。

 夜は校庭の芝生に並んでごろ寝をしました。すると、ものすごい蚊の大群がやってきます。これにはみんな悩まされました。

 留学生のサガラさんはヴァイオリン演奏が上手でインドネシアや日本の歌をみんなで歌いました。校庭にはほかに誰もいません。歌声は夜空に響きわたり、星はとてもきれいです。被爆したものどうしの集まりとは思えない心なごむ夜を過ごしました。とても印象的なひと時で、生きる勇気と希望が湧いてきました。

 野宿をしながらの一週間はあっという間に過ぎました。明子にとっては生きていく希望をもらった一生忘れることのできない宝物となりました。

 絶望的な状況にあって、キラキラと光る星座のような美しい話である。絵本の表紙の裏には長女栗原エミさんが次のように記している。

異国の地 広島で被爆された南方特別留学生の方々
偶然にも広島文理科大学の校庭で共に野宿をしながら生き延び
母明子を親身になって励まし
その後の生きる勇気と希望を与えていただいたことに感謝し
母に代わり本書を捧げます。

 広島平和記念資料館で開催された企画展の副題が「国を超えた友情」となっていたことにも頷ける。

 栗原さんの場合もラザク先生親子と同様、娘さんが母親の思いを引き継ぎ、絵本という形で記録を残された。亡きオマールさんやラザク先生もきっと空から「ありがとう!語り継いでいくことは大切だね」と言っているだろう。

(つづく)






ラザクさんも被爆一か月後、明子さんに宛てた葉書の中で「其生活は面白かったネ」と書いている。


リンク:

英語版 A Malaysian second-generation A-bomb survivor’s promise with a hibakusha(YouTube)
終わりの方で明子さんがズルキフリーさんとラササヤンを歌っている


未来へ残す 戦争の記憶|TSSテレビ新広島
栗原さんの証言をマレーシアの若者に伝える



89歳の時のインタビュー(留学生たちのことが語られている)



参考:
栗原エミ『明子 被爆者である母のこと―南方特別留学生との友情』(5月のさくらプロジェクト、2024年)
栗原明子『ヒロシマからの祈り』(いのちのことば社、2013年)



❤ インドネシアやマレーシアでは誰でも知っている歌です 
Rasa sayang hei    愛おしい思い
Rasa sayang sayang hei  とても愛おしい思い
Hey lihat nona jauh    遠くのあの娘を見ている 
Rasa sayang sayang hei  とても愛おしい思い
  (繰り返し)
このあとは伝統的なパントン(4行詩で教訓や生活の知恵が表現される)や即興のパントンを自由に続ける。