当地の英字新聞に日本のお盆を紹介する写真が載った。灯篭流しの写真に僅か数行の解説がついたものだったが、日本の「こころ」を写し出していて郷愁を感じた。

 56年前、広島で被爆、9月3日に京都で亡くなったマラヤの青年がいる。広島を発つ前、彼は自分の運命も知らず、次の歌を残した。

 母を遠くはなれてあれば 南にながるる星のかなしかりけり (サイド・オマール)


再掲

マレーシアの親日家②ウンク・アジズ元マラヤ大学学長

2000年8月13日

 先日、久しぶりにウンク・アジズ元マラヤ大学学長にお目にかかる機会があった。小人数の夕食会だったのだが、デザートが運ばれる頃になって、話はサイド・オマールさんのことに及んだ。

 サイド・オマールさんは西マレーシア南端ジョホール州の王族の出身で、ウンク・アジズ教授夫人、アザー女史の実兄。同教授とは幼なじみでもあった。1943年に大東亜省が招請した南方特別留学生として15歳で来日したのだが、広島で被爆。東京に向かう汽車の中で病状が悪化し、京都で途中下車した。しかし、京都大学病院の担当医濱島義博氏の献身的な治療・看護の甲斐もなく、1945年9月3日、異郷でそのまま帰らぬ人となった。

 「心の優しい、美青年だったそうですね」

 『オマールさんを訪ねる旅―広島にいたマレーシアの王子様』の表紙を飾るソンコ(黒いイスラーム帽)姿のオマールさんのモノクローム写真を思い浮かべながら、私はそう言った。

 「そう、確かにハンサムだった。・・・優秀なやつでね・・・。オマールとは私が1945年3月に日本を離れる直前にも会っている。『帰らなくてもいいのに・・・』と言っていた」

 ウンク・アジズ教授は南方特別留学生ではなかったが、徳川家がジョホールのサルタン家と親しかった縁で、徳川奨学金を得て早稲田大学で学んでいた。しかし、同大学の閉鎖にともない、終戦前に帰国している。

 「京都に墓があってね・・・」
 「円光寺ですね」
 「そう、確かそういう名前の・・・」

 オマールさんは亡くなって55年経った今も京都修学院の地、円光寺で、心ある日本人たちに守られて静かに眠っているのだ。イスラーム教徒でありながら、仏教徒たちに囲まれて・・・。

 「私たちムスリムは、日本人と違ってお墓がどこにあろうとあまり気にしないんです。もうそこには魂も、何もないんだから・・・」

 そうポツリと漏らしながらも、遠く離れた異境で若い命を絶たれた義弟について語る同教授の目は潤んでいた。

 私はマレーシアの知的指導者、文化人でもあり、親日家の第一人者として知られるウンク・アジズ教授の人生に彫り込まれた日本との悲しく、深い絆に改めて心を動かされた。

 王族であるウンク・アジズ教授(Royal Professor Ungku A. Aziz)は1922年ロンドン生まれ。トルコ人の血を引くその西洋人的風貌は、78歳という年を全く感じさせない。今も、学問の傍ら、政府の諮問委員やマレーシア生活協同組合(ANGKASA)の会長、南北高速道路開発会社等の役員を兼任しており、エネルギッシュに活動をしておられる。

 1951年マラヤ大学(シンガポール)卒、専門は経済学(農村開発)。1964年早稲田大学より経済学博士号を取得。マレー人として初めての講師(1951年)、教授(1960年)となり、1968年から1988年まで20年間マラヤ大学の副学長(マレーシアの学長は州元首等がなり、副学長は実質的な学長)を務めた。

 日本との関係では、60年代、70年代に頻繁に日本を訪問、1982年にルックイースト政策の一環として始まったマラヤ大学日本留学予備教育課程はウンク・アジズ学長時代に始まっている。国際交流基金とも縁が深く、1981年には国際交流基金賞を受賞した。1993年には福岡アジア文化賞(学術研究部門)を受賞。日本屈指の東南アジア研究者である石井米雄教授(神田外語大学学長)とは旧知の仲である。

 半世紀以上前を振り返って、同教授は次のように述べている。

 「日本文化について徳川家を通じて学んだ。どうして日本は米、英に勝てたのか(後で負けたが)。明治維新から更に溯って、江戸時代に興味を持った。マレーシアが日本から学ぶことは2つある。聖徳太子から江戸時代までの歴史、そして日本人の生活にみられる、自然や芸術に対する細やかさ、繊細さである」

 音楽、美術、映画、写真等に対する造詣も深い同教授は、おどけて自らを東西文化に精通した「文化恐竜(dinosaur)」と称されたこともあった。日本の俳句、五輪真弓の歌、黒沢明や三船敏郎等の日本映画ファンでもある。

 一人娘で今年5月にマレーシア中央銀行(Bank Negara)総裁に就任したゼティ・アクタル・アジズ女史(52歳)の息子さんたちを連れて、国際交流基金主催の映画会などにも気軽に出かけ来て下さったことが思い出される。

 そのウンク・アジズ教授が冒頭で紹介した夕食会の別れ際に次のような一言を述べられた。

 「これはお国の大使にお願いすべきことなのだが、アブドゥラ(アブドゥラ・バダウィ副首相)を早い時期に日本に招待したらいいね。彼は日本の事をほとんど知らないと思うよ。何しろマハティールは50回以上も訪日しているからね・・・。そうだね、やっぱり季節は桜の頃がいいだろうね」

 半世紀にわたり日マ交流に携わってこられた方の、ポスト・マハティール時代を見据えた貴重な提言だと感心した。

参考:
  1.早川幸生編「オマールさんを訪ねる旅ー広島にいたマレーシアの王子様(かもがわ出版、1994)
2.藤原聡他「アジア戦時留学生ー トージョーが招いた若者たちの半世紀」(共同通信社、1996)