前回のコラム『日本列島を覆う桜と茶髪』は、「萬晩報」に転載されたこともあり、予想外の反響があった。日本に対する印象を、未整理のまま率直に文章にしたものだったが、いただいたメールを読むと、「現代日本社会をどうとらえるか」「これからの日本をどう考えるか」など、大切な問題も浮き彫りになってきて、今後社会や文化の問題を考える上で大きな示唆をいただいた。
 さて、反響を大別する、「伴さん、過剰反応ですよ。目くじらたてるようなことじゃないですよ」という意見と「あなたの心配は的中しています。問題は深刻です」の二つに分かれる。

 前者の意見はその理由として「一過性のものである」「コマーシャリズムに踊らされているだけ」「茶髪でもしっかりした若者もいる」「時代の流れ。いつも時代の先端を行くファッションは異端視された」「日本が自由で豊かな証拠」などを挙げている。

 以下にいただいたメールのいくつかをご紹介する。

【皆同じようにしないと不安】
久しぶりのエッセイ、前半の日本の春の描写、目の前に浮かぶようで本当に懐かしかったです。美しい文章の中に自分の昔の思い出を重ねて、ほんわりと過去に飛び立っていたのです。出来る事ならそのまま暫く日本の春の中にいたかったけど、、、茶髪の話は次の便にして欲しかったなあ。

 でも、美喜子さんの危惧は取り越し苦労だと思います。日本の若者(若者だけじゃないか)は皆同じようにしないと不安なんですよ。思い出してごらんなさい、ロングスカート、ミニ、ホワイトジーンズ、ブーツ、ロングへアー、ファジー、ワンレン、エトセトラ、エトセトラ。日本全国皆同じになって、今はもう誰もやっていないでしょう。マスコミに踊らされているんです。来年の春の流行は「髪は烏の濡れ羽色」なんて皆まっくろ頭になるかもしれませんよ。

 日本の商品は良質過ぎてなかなか壊れないから、売る為には全く反対の流行を起こさなければならないのです。本当に躍らせられやすい国民ですね。

友達が言っていました。昔農耕民族だった頃の、村八分の習性がまだ残っていて、潜在的に他の人と違う事を恐れるそうです。なんとなく分かるような気がしませんか?(在米国、広美)

【金髪が多すぎて金髪をやめた大学助手】
大変楽しく読ませていただきました。小生は大学院で火山学を勉強しています。小生の所属している研究所のある助手の方が、6年程前のまだ学生だった時に、ロック系のバンドに所属していており、金髪にされていました。その金髪のまま火山学会で発表をしたために、学会の中でずいぶん話題なったそうです。アカデミックな場である学会で、金髪というのは、6年前にはかなり浮いた存在でした。

 ところが、現在ではそれほど話題になることはないでしょう。BANさんも書いておられたとおり、町にはカラフルに髪を染めた若者がたくさん歩いています。

 その助手の方が(当時は学生でしたが)、金髪のまま学会発表をすると決めたとき、指導教官はもちろん反対しました。「私の品性が疑われる」と言ったそうです。しかし、その指導教官が数年後、白髪を黒髪に染めたのですが、その白髪染めが時間と共に色落ちして見事な茶髪になってしまったのです。

 その茶髪のまま学会で発表した時に、助手の方が当然のことながらその元指導教官に「その髪の色はなんだ!」とやりかえしたのは言うまでもありません。金髪に染めていた助手の方は、現在は黒髪です。もう金髪にしないのかと尋ねると、まわりに金髪が多すぎてやる気がしないそうです。その助手の方は、一昨年博士論文で学会賞を受賞しています。

現在、若い人が理容室や美容院に行くと、髪を染めませんか?と必ず聞かれます。値段は4000円程度です。またコンビニエンスストアに髪の色を脱色するためのブリーチ剤が売られていて、自分で手軽に茶髪にすることが出来ます。

 ある髪を染めていない友人が昔ながらの古い理髪店に行くと、いまどき染めていないなんて珍しいねと感心されたそうです。

江戸から明治に変わるときに、侍は刀とちょんまげを捨てました。今の時代に、力士以外の人でちょんまげをしていれば笑いものになるでしょう。今は茶髪が日本人のスタンダードになりつつあるのかもしれません。

 実は小生もすこし茶髪にしています。いいわけをすると、知り合いの理髪店の方に強く勧められて断れなかったからです。(無下に断る理由もないですからね)この茶髪のまま国際学会で発表する予定ですが、いまでは誰も髪の色に文句をつける方はおられません。こんな現実は、BANさんにとってやはり悲しいでしょうか?( Nakaboh)

【中国で茶髪は日本人のアイデンティティ】
私は北京の一大学の修士課程に籍を置く者です。今回のエッセイ「日本列島を覆う桜と茶髪」、興味深く読ませていただきました。
 北京に来て3年目ですが、4月になるとやはり日本の美しい桜がとても懐かしくなります。先日、せめて桜だけでもと思い北京の桜の名所に繰り出したのですが、植えられているのは八重桜のような色鮮やかで元気のいい桜ばかりで、日本のソメイヨシノ種はごくわずかでした。それでも、勢いのいい中国の桜たちの間で、日本の桜がぽつんとはかなくも可憐に花を咲かせている様子を見て、思わず目に涙がにじんでしまいました。

 私にとって、桜は子供の頃から慣れ親しんだ旧友のようなものです。私は横浜市の桜台という、街路樹にすべて桜の植えられた美しい町に住んでいたのですが、4月になると町中が薄ピンク色に染まり、新学期を迎え浮き立つ心に色を添えてくれていたものです。

 北京に来てから、中国の文化や人々の考え方の相違に戸惑いつつも、何とか充実した留学生活を送らせてもらっていますが、中国の生活に適応したつもりでどんなに強がっていても、やはり日本の心というものはそう簡単に失えるものではないのだなあと実感しています。

 そういう感情をかみしめていた矢先にMIKIKOさんのエッセイが届いたので、思わず共感してメールを書かせていただいた次第です。茶髪についても、また思い入れがあります。

 どうやら中国にやってくる日本の若い留学生たちは、髪を茶色や金色、白などに染めることで、日本人としてのアイデンティティを保っているようです。というのも、見た目はほとんど中国人と変わらない日本人留学生らが、ほとんど髪を染めるということをしない中国人から自分たちを区別するために、このような行動に出ているようなのです。

 西洋系の留学生は見た目ですぐガイジンだと分かってもらえますが、私たち日本人は日本語なまりの中国語で話しかけない限り、なかなか日本人だとわかってもらえない。でも日本は中国と違ってオシャレ先進国なので、ダサい中国人たちとひとくくりにされるのはイヤ。だから髪の色も、日本で流行しているような色に染めなくちゃ。という心理が働いているような気がします。事実、中国に来てしばらくたってから髪の色を染める日本人学生の多いこと、多いこと。いわゆる「留学デビュー」ってやつでしょうか。

 日本にいる日本人からしてみれば、茶髪は一種の「日本人喪失」現象の現れだと思えるかもしれません。ですが中国では、日本人の茶髪現象は「日本人としてのアイデンティティの主張」であるわけです。こういう主張をしている若い人たちに話を聞いてみると、意外と「中国に来てやっと日本の良さが分かった」とか「日本人として、自分の国の歴史を理解するのがどんなに大事かってことを思い知らされた」なんて金髪に似合わないマジメな顔で言ったりするのです。

 若い人の、髪の色に対する感覚が変わってきたことが、これらの現象の主な原因なのでしょう。こう冷静に分析している私も、茶髪にクールメイクでお花見に行き、日本人ギャル(?)としての尊厳をなにげに保っているのですが。これからも配信を楽しみにしています。(矢上 )

【マレーシアとあるだけで視線が止まります】
 日本の北国、青森からメールを出しております。高知の桜はとっくに終わったのでしょうが、当地ではこれからが花見の時期です。3月の半ば、団体旅行ですが、初めてマレーシアを訪問しました。ガイドさんが良かったせいかもしれませんが、楽しい旅行をすることができて、マレーシアがすっかり気に入りました。

 正直なところ、それまでさほどマレーシアに興味がなかったのですが、以来、「マレーシア」と書いてあると、それだけで視線が止まります。HPの文中でご紹介のマラッカの英文の碑は、私も関心深く読んできました。(とはいえ、英語が得意ではなく、全くの斜め読みですが。)

 第2次世界大戦での日本の存在は、全てが完全に悪いわけではなく、西洋列強の植民地支配という強力なたがをはずすという、歴史の大きな流れの中で、相応の役割を果たしていたようです。こうした歴史の事実は、もっと日本国内でも知られるべきではないかと考えました。

 とはいえ、大戦中の日本軍が各地で取った行動は、戦時下という特殊の状況下とはいえ、やはの非道であったと反省し、謝罪する必要がある部分があったことも、きちんと認めるべきは認める必要があるとも思います。

 最近の、やれ自虐史観だ、やれ東京裁判史観だとかいう論争にも、その反対の唯侵略史観とでもいうような議論にも嫌気がさす今日この頃です。どちらかに極端にぶれることなく、冷静な歴史認識ができる日が来ないものかと、時々考えるものです。

 日本人の間で、整理がつく日が来るのはまだまだ先のことでしょうが、整理のためには、いろんな所に埋もれている歴史の事実をたくさん掘り出すことかな、と最近思っています。 私たちについてくれたガイドさんは、熱心にマレーシアのことを話してくれたが、全く第2次大戦のことに触れなかった。乗客の金満・日本人に気を使っているためかと考えたりもしていたが、どうもそればかりではないようだと感じていたが、伴さんのHP(ほんの一部ですが)を見て、理由が少しわかったような感じかしました。

 これからも時々HPを読ませて頂きます。取り止めのない文章になりました。ますますのご活躍を祈ります。(Aizawa)

 【茶髪はメディアに踊らされた主体性のない烏合の衆】
 私は日本人であることをやめても別にどうということはないと思います。しかし、僕の周辺の若者たちの茶髪や金髪がおぞましい点では同意します。茶髪も金髪も西洋崇拝とは関係ありません。むしろ主体性のない烏合の衆がメディアにおどらされて、隣人にあわせているだけだろうと思います。
 西洋崇拝どころか、極めて日本人らしい倭人根性だと理解しています。問題なのは、彼らが髪の色や形の異装ばかりかモラルの急激な低下を伴っているということです。

 日本人かどうかとは関係なく、だらしなさ、不潔さ、粗暴さ、独善性などは悪徳です。茶髪君たちに私たちオジサンが吐き気を催す原因は、彼らの異様さの暴力性にあります。彼らは、それを分かろうともせず、分かっても改めようとせず、彼らの独り善がを疫病のように蔓延させ、まともな感覚の持ち主たちに不便や不自由を感じさせて恥じません。憤りを感じるのが当然といえます。(鈴木)

【余りにも温厚で、婉曲的な表現】
 シンガポールに18年在住する、貴稿の愛読者の一人です。今回、題記に就いての貴女のご杞憂は的中していると思います。 然し、貴表現が余りにも温厚で、婉曲的なので、何か焦燥感の様なものに駆られて、以下に拙文を送信する次第です。

 茶髪、パーマ、厚底靴等、一連の、不健康で、余り身体に良くない流行は、忌憚なく言えば、謂れのない、しかも識びゃく下の劣等感の裏返しであり、人間の価値や美しさが何処に在るかを知らない、また問うこともしない無知性の顕われである、と考えます。つまり、誤った教育や報道や家庭の在り方で、師や両親のみならず、自分自身を見失った、非近代的、非現代的な野蛮性への逆行現象と考える訳です。

 彼らは、此処二百年余り世界経済を牛耳ったアングロサクソンを中心とした北欧系の有つ総ての文化や体形にまで憧れ、賞賛の余り、愚かしくもその物真似をする一方、自国や自分の価値を見失い、自己やその周囲を、所謂るダサイと決め付けているような人種ではないでしょうか?

 逆に、ローマが西欧世界の覇者であった時代、シーザーはその著書「ガリア戦記」の中で北欧人を評して、「手足が蜘蛛の様に長い、気味悪い野蛮人」と書いています。

明時代の教養人が西欧人を十羽一絡げに、「毛深くて猿に近い未開人」と決め付けていたのを読んだことがあります。 また、絢爛たる文化を誇った室町時代に端を発すると言われる、御伽草子の桃太郎が退治する赤鬼・青鬼も醜悪で、島に漂着した西洋人をモデルにしたように考えられます。 然もなく共、既に「南蛮」と言うこと自体、酷い見下げ方ではないでしょうか?

 此れには、文字どおり視野の狭かった、前近代的な知性の限界を感じます。同時に、極端な人種差別(悪気がなさそうなので主義とは言い難い)や見知らぬ者を警戒する、幼児的な排他性があったようです。 つまり、悪気なく或いは無意識の裡に、茶髪にしたり、背を高く見せるのに厚底靴を履いたりするのは、逆ながら、謂れの無い優越感を抱こうとする、同列の幼児性と無知性であると疑う訳です。

 この様な野蛮人が、東南アジアへ来ると、人種差別の言動をし易いので問題です。謂れの無い劣等感が、簡単に謂れの無い優越感に変換されるのです。 例えば、悪気無く、誉めたつもりで “You look exactly as a typical Japanese.”と強調して、”No、I’m a typical Chinese”と反撥された人も、偶々かも知れませんが、髪を茶色に染めていました。 日本が経済的な巨人となると、日系企業で働く人が多くなり、日本語を習う人が増えたり、日本の歌曲が流行ったりしますので、つい調子に乗って自分と同じように、相手が自己のアイデンテイテイなど問題にしていないと錯覚する訳です。

 人種的あるいは民族的特性を含めた自己の文化に矜持を抱き、且つ相手の文化を尊重することが、現代人の必須条件と思います。当然、自然な、文化や人種の融合も肯定的に捉える度量も必要と思います。然し乍ら、茶髪はその様な文化の融合とは余りにも、似て非なる猿真似であり、自分が如何に知性がないか、如何に自分を知らないか、如何に誇りがないか、を無意識に体現しているのが、滑稽で、哀れで、醜く、正視出来ないのです。 つまり、同じ日本人として、情けなくて、情けなくて仕方がないのです。

 若い時に、自国の歴史や華麗な文化も碌に学ばず、ロカビリーに半狂乱で嬌声を挙げた母親達が、丹精込めて育て上げた、我が侭な(自己主張の強い?、矯悪された(両親への感謝や尊敬の心が希薄?)、夢がなく、目先の利や満足を求め易い(しっかりした?)非日本人(非人間?)が着実に増えていると思います。

経済成長路線を驀進した日本で企業の半奴隷となり、判断能力さえ奪われた父親達は、赤貧の敗戦国家をGDP世界2位(一人当たりでは米国より上位)の経済大国にしましたが、家庭を顧みる余裕もなく、家庭教育の場から遊離し、それを然したる社会的鍛練を受けていない妻に委ねる者が大半だったと思います。「お父さんの様には、ならないで」と言うのが最たる子供達へのメッセージであるとすれば、また何をか況やです。頑固な祖父母のいない、気楽で、自由な核家族社会の影響もあるかも知れません。

 自分の両親が祖父母に感謝し、尊重する姿に接することなく、子供たちがその良き習慣を受け継ぐ訳がありません。 また、以前は、祖父母が外で働く父親の擁護を、家族の中での権威付けや尊重や愛情の絆の為に、日常的にしていたのかも知れません。

 しっかりした若者の就職先で人気があるのが、無責任で、乞食根性の強い、税金泥棒の様な公務員である事実(新聞報道で見る)は、そのような若者にどのような教育がなされたか、を物語っています。

 此れは流行と言った罪のない現象ではなく、猿真似の、更なる猿真似であり、根の深い、二次感染の集団自己喪失症ともいうべき深刻な現象であると愚考する次第です。

 従って、親が自己の責任を自覚し、先ず毛染めやパーマを止め、何故止めるのかを、子供達に説明することが先決だと思います。 親の尊い愛をヒステリックに子供に押付けないで、自分が自分の親に態度で示す機会を作ることが大事です。 さもなくば、次世代ではこの症状はもっと蔓延しているものと推測します。(野村)

【若いころ白い目でみられた男の長髪】
私も茶髪やガングロは好きでない。私が若いころ、男のクセに長髪だなんて、と大人から白い目で。しかし、一昔、ヒッピーという物が、当時の大人達から、今どきの若い者は、とそれより、昔、大洋族が流行った。

 大正・昭和初期、モゴ、モガが流行した。明治維新、洋風かぶれに、当時の大人は、日本人の変わり方に嘆いた。江戸時代、奇抜な格好をした、歌舞伎もが町をのさ歩いた。室町初期、バサラと呼ばれる人がいた。いつも、時代は、若い世代により、変わりつつある。若さは、古い頭では、理解できない行動、かっこする。なげいては、いけない。日本人は、昔から変わりいく者である。いつまでも、日本人は、こうあるべきだと思うのは、そう思う人の感性が古いか、あるいは固定観念にしがみついているのだろう。大戦前、思想が固定され、異なる者は排除され、戦争の道へたどっていった。今の若者を嘆くまえに、おのれの頭の固定概念のサビを落とせ。(榎本)

【コンクリートに囲まれた日本人に美意識は無理】
 貴方の見た今回の事象は今、事実です。流行というには抵抗がありますが、あのままの容姿で一生をすごせる訳ではないので、日本の一過性な事実です。そんな中でこのような”日本総茶髪化”を嘆き古き日本の精神を引き合いにだしても、若者には”それなに?”と問い返されるだけです。

 だいたい、コンクリートに囲まれた自然にその日本人としての美意識を呼び出すことは無理です。海岸にいってテトラポットだらけのコンクリートの海や、ダイオキシンで汚れた小川(これも護岸はコンクリート)山に行っては削られた地肌にコンクリートと、それで一体どんな美意識が育まれますか?若者はそれを表現できません。在るのは漫然とした不満だけです。もしこの事実に大人が何にも感じないのでしたら、それこそ大問題です。ひょっとしたら私たち大人が知らず知らず子供たちを傷つけているんではないでしょうか。また、私たちはこの茶髪の若者に一体どんな良い未来を期待させるような土壌を提供できるのでしょうか。 私は、まるで毒キノコのように競い合って化けている彼らに、投げつける言葉を持ち合わせていません。

 私には9歳と5歳の息子がいますが、彼らにはちいさい時からきれいな自然を見せにあちこちつれていっています。しかし、きれいな海は日本にはもうありません。空も消えています。最近はもっぱら外国です。彼らの”海”の印象を湘南の海で終わらせたくはありません。カリブもニューカレドニアもあるんです。風も地球を、大地を、感じてほしい。子を持つ親の責任はもう日本では果たせなくなってしまいました。でも自分の子供を毒キノコのようにはさせたくはありません。(紅テングだけも塩ずけにして3年寝かせれば食べられます。かなり舌がしびれる冒険ですが。)マレーシアからの御健闘を期待します。(鹿又/yuki)

【好きなわけではないが慣れの問題】
 あゝ、うるわしの日本には大変強い共感を覚えました。熱帯の花も、私たちの身の回りにはない美しさがありますが、春先の今の日本の美しさは、日本中どこを歩いても花に埋め尽くされた桃源郷のように思えるときがあります。

 さて、後半の「茶髪」ショックについて、私の「感じ」を述べさせてもらおうと思って、このメールを書いています。私についていえばお母様の「そう言われてみれば、そうね。まあ、あれも一つの流行だから・・・。数年したらなくなるんじゃないかしらね。若い人たちはエネルギーが有り余っているのよ。はけ口がないのよ。・・・でも、彼らは外見ほどイカレてはいないそうよ」という感じとほとんど同じです。

 私も、茶髪が好きなわけではありませんが、美喜子さんのように「慨嘆」するほどではありません。ひとつには慣れの問題があるかも知れません。私やお母様は、見慣れているのに対して、美貴子さんは慣れていない。あと、1、2年日本にいればお母様の感想に近くなるような気もします。

 私の個人的な経験ですが、8年ほど前、会社に茶髪の新入社員が来たときのことを思い出します。彼は先輩のうるさい社員に嫌みをいわれながらも、茶髪で通していました。かれと仕事の話をすることがあったのですが、意外にも非常にしっかりした青年でした。言ってみれば、髪の毛を茶色に染めているということ以外は、普通以上の好青年でした。まだまだ、茶色に髪を染めている人は少なかった時代でした。もう一つ、息子が麻布中学に入ったために、すごい光景に出くわしました。

 文化祭や体育祭は特にすごいのですが、モヒカン頭にアフロヘアー緑色の髪の毛に染めた集団もいます(クラス対抗でそのクラスのシンボルカラーは緑なのです) 普段でも、目立ちたがりやの子はそんな格好をしています。モヒカン頭なんて、文化祭が終わったからといって急に元通りに戻せません。(もちろん普通の中学や高校では校則で許されません。麻布は例外です)そのような子たちが、東大に入って日本を背負っていくのです。これなどは、戦前の旧制高校生のバンカラに通ずるものがあるのでしょう。少なくとも、塾と学校だけの勉強しか経験しないで大人になるよりはましであるように思われます。

 私自身も、茶髪が好きなわけではありません。とくに女の子が、高いサンダルを履いて、黒っぽいへんてこりんなお化粧をして、口の周りだけ白っぽく、それに加えて下着みたいな透き通った服を着て歩いているのを見ると、親の顔が見たい、と嘆かわしくなります。 でも、まあ、いいじゃないか、こういうことができるというのは日本の豊かさでもあり、本人も一生こんな格好をしているわけでもなかろう、と半ばあきらめの気持ちでいます。

 ただ、単純に『西洋崇拝』というわけではなく、自分にないものを求めている面もあるかも知れません。アフリカ人の女性は肌の黒いことよりも髪の毛が縮れていることにより劣等感を感じているのではないか、と思ったことがあります。私たち日本人の方では、せっかくの直毛にパーマネントをかけてかっこいいと思っている人も大勢います。

茶髪と違って、一見目に見えませんが、日本の20代後半から30代で結婚をせずに、親と同居している「若者」が大勢いる、という大きな問題があります。(石川)

【BANさんは和服を着て髪を結っているの】
今回の、「日本列島を覆う桜と茶髪」と読ませていただき反対意見があります。 BANさんの主張は”茶髪をした若者は「日本人喪失」である”とのことだと理解しました。私はそう思いません。茶髪現象は一時のはやりであり、また「大和民族」の特性の現れだと思うからです。BANさんの言われる「日本人」とは、「昭和の日本人」であり、「大和民族の一瞬の形」でしかありません。古来、大和民族の特性の一つは、外来文化を柔軟に取り入れることだと言われていますし、私もそう思います。茶髪はその現れだと思います。

 茶髪が問題ならば、洋服を着ていることも「日本人喪失」では、ありませんか。髷を結わないことも「日本人喪失」ではありませんか。BANさんは和服を着て髪を結っているのですか。洋服を着てパーマをかけておられるのなら、あなたも「日本人喪失」しているのではありませんか。いったいどこがBANさんの「日本人」の基準なのですか。

 大化の改新より現在まで、大和民族は、中国をはじめ外来の文化を、柔軟に取り入れてきました。坂本竜馬がちょん髷を結わず、ピストルを携えて刀を否定したことにより、彼が「日本人喪失」したのでしょうか。ただし、茶髪をした若者達が、竜馬のように、日本の将来を考えているかは、不明ですが。

 「外見だけで人を判断してはいけないと自戒しつつも、民族衣装やイスラームのベールを着用することで民族のアイデンティティをはっきり打ちだし、矜持を持って生きている人々の間で暮らしている私にはこの現象が「日本人喪失」に見えてならない}

 私は99年始まで2年半、シンガポールに勤務していましたが、マレー民族の娘さんが、ベールを着用するのは宗教の戒律のためであり、彼女達の中にもメッカへの巡礼を機に、ベールを着用するが、それまではおしゃれを楽しむ娘もたくさんいました。周りの目がなければ、彼女達も多彩な(異彩な?)おしゃれを楽しむでしょう。若い娘(男も)なんて、そんなもんじゃないんでしょうか?ムスレムの戒律にしばられ、自由におしゃれを楽しめない、環境にあるだけだと私は思っています。

 では、日本民族のアイデンティティとは、何なんでしょう。マレー民族のベールは、ムスレムであるとのアイデンティテイであり、ムスレムであれば、アラブ民族、ペルシャ民族と同じだと思います。マレーの娘は、ムスレムであるというアイデンティテイで、ベールを被っているのであり、彼女達の宗教がイスラームであるとの表現だと思います。

 日本の娘の茶髪は、彼女達がイスラームでない証拠、大和民族の宗教が、戒律の少ないモノであるとの表現だと思います。(大和民族の宗教については、深くは触れませんが、 仏教でなく、神道系の原始宗教の痕跡を、民族として残していると思っています。)

 彼女達の茶髪こそ、大和民族のアイデンティティのひとつの表現だと考えるのは、間違っているでしょうか。

「 それにしても、この日本列島総茶髪化は、異国にあって、祖国を 想う者にとって、大変気になる、うら悲しい情景である」

 そう言う私も、茶髪が大嫌いです。たえられないくらい「見苦しい」と感じます。また、世界有数の空港、シンガポールチャンギー空港のロビーで、修学旅行の高校生の娘が、スカートであぐらを組んで座っていたのを見たときは、国辱であると感じました。

 しかしでは、彼女達がそうなったのは、BANさんと私を含めた、我々のせいではないでしょうか。我々の造ってきた社会が、彼らの行動を許容したのです。

 日本人はもう「日本人」ではなくなりつつあるのだろうか。

あなたの言う”固定された日本人”が変わったのは、環境の変化の作用と、我々がつくりあげてきた社会の作用の結果です。それを、棚上げにして、他人事のように

「しきしまの大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」(本居宣長)の歌を思い出し、私の心配が杞憂であることを祈らずにはいられない」

 そんなBANさんの姿勢は、私には無責任に感じられる。怒りを覚えます。そんなに憂えるのなら、マレーシアから帰国して日本で世直し運動を起こせばよい。

 私はちがう。 彼女彼ら、若者にパンクムーブメントを生み出したロンドンの活力をイメージする。日本が、東京が新たな文化を作り出していく胎動を感じる。彼女達にエネルギーを感じる。

 彼女達の多くも和歌を詠むかわり、カラオケしながら、桜を楽しんだでしょう。大和民族の伝統は桜をめでることに本質があり、和歌を詠むことではなく、カラオケをしながら花見をしたって、民族の伝統の本質はなんら変わっていない。姿かたち、方法が時代と供にうつろいゆくだけのことである。

 私の主張、大和民族は新たな姿を探し、変わっていく、それが我々大和民族の特性だから。茶髪ごときで「日本人喪失」とは笑止千万である。(庄野)

【日本人本来の髪の毛の色って何色ですか】
茶髪の日本人を見て「日本人とは?」と考えざるを得ないひとりです。確かに、自分自身も日本人は「黒髪だ」と考えていたひとりですが、ここ数年の間に考えることがあっていろいろな想いが廻っています。

 例えば、あなたの言われるとおり、あなたのお母様が言われた「確かに茶髪が増えた」がそれは”流行だ”と言ってしまう事もできるでしょう。しかし、この世の中様々な現象が生じる中で極端な言い方をしますが、江戸時代から明治にかけて「丁髷」を結っていた人が、いきなり「散切り頭」に移行できたでしょうか?

 それこそ賛否両論ではなかったでしょうか?

 自分はその時代に生きていなかったので、言い切ることができないのですが、少なくとも「着物」から「洋服」へ移行した時代を経験されている方なら、この「茶髪」や「奇抜な髪型」などの風潮もある程度の時間がたてば、”あぁ、こんなことが昔もあったなぁ”と思えるのではないでしょうか? もちろん、この現象を「日本人に有るまじき行為」として杞憂しておられる方も多いと思います。けれど、この現象が仮に「自然発生した現象でなかったら」とすれば、これも”明治維新前後の現象”として「時代の流れ」ととることはできないでしょうか?

 自分は義務教育の枠の中で「茶髪はイカン」と言ってる横で、白髪染めをしたり「毛染め」をして”みんなやってるやん”って問題意識を持たないオジサンオバサンの教師に「あんたは何でそんなことをしているんですか?」と訊きたいひとりですし、日本人本来の髪の毛の色って何色ですか?って訊きたいひとりです。「責任」とか「大人」って言う言葉で括っている割には、じゃあどういう事でしょうか?って伺えば、ハッキリ応えてくれない人ばっかりになった「今の世の中にこそ」危機感を感じます。

 少なくとも、人間関係を創ってきた人たちには、真正面から目を見て「こうだ」って言える生き方をしてきたつもりです。京都「憤りの人」〔黒田〕

【日本に帰ってショックでした】
私も同感です。私もオーストラリアにいて、日本が恋しくなる時があります。あなたが書いたように、日本独特の繊細な季節感。
 私もこのお正月に、日本に帰ってショックでした。確かに、多数の日本人はあまり、日本人である事に誇りを持っていないと思います。確かに白人崇拝もあるようです。オーストラリアのような移民の国にいると、はっきりと国民性の違いを感じます。その中で思うのは、日本人は、特に若い女性は、自分に自信がないという事。ですから、飾り立てて、みなと同じようにしたがる(茶髪は、一つの例)のではないでしょうか? 日本人は、日本人の素晴らしさがあるのだから、もっと誇りを持って、日本人であるというアイデンティティーを持って、その上で、他者を理解する事が出来るのだと思います。(由佳)

【ああ、世も末だ】
 わたくしも同感です。流行とはいえ嘆かわしい日本の現状です。これまでの日本人は外国人から見て人間として奥ゆかしく礼儀正しい国民と思われてきた。それが戦後の教育で一変し、権利の主張ばかりをし、マスコミや芸能界に影響されたのか自分たちとその領域の人達との垣根を取り払いあたかも自分たちもその仲間入りをしたかの様な錯覚をしている輩が増えてきています。人間としての肝心な中身は何処かに置きさり、外見にとらわれる若者たち、化粧をする男たちさえ出てくる始末に呆れてしまいます。
 その寛容さが益々こういう現象に拍車をかけてもいる様です。ああ、世も末だ。(米沢)

【ベール姿が生き生きとして印象的でした】
 香川県に住む、23歳OLの、みおと申します。萬晩報00424を拝読し、とってもおもしろかったので、ホームページへもお邪魔させて頂きました。というのも、私がついこのまえ、シンガポールへ旅行中にマレーシアのジョホールバールへふらりと遊びに行ったからです。

 本当に、女性たちはベールですっぽりと体を覆っていて、でも、とっても生き生きとした表情が印象的でした。路地裏の小さな食堂でコーラを飲んでいると、若い女性が2人入ってきました。一人は、頭を覆うベールを取り、ちょっとワルなのよという視線(きれいな方だったのでとっても魅惑的でした)で周りを見て、周りの人達も思わず彼女を見ていました。

 それを見て、私は、なんて素朴な光景なんだ、と思いました。日本の一部(と願います)の若者のように、原形をなくすほど化粧をし、やたらかまわず地べたに座り、大きな声でプライベートなことを喋る姿は、弁解の余地なしで、恥ずかしいからです。思わず見る気もしません。彼らを理解したくもないし、ただ目をそらすしかありません。

 マレーシアの内面に触れた、貴重なサイトだと思います。今度はジョホールバールだけじゃなく、しっかりマレーシアを知るために旅行したくなりました。すてきなこのページ、これからもお邪魔させて頂きますので、頑張ってくださいね。(みお)

【美しい日本語に出会った】
 久しぶりで、美しい日本語に出会ったような気持ちにさせられました。異文化の中におられる人の方が、かえって固有の文化を保持しやすいとは、文化の有り様が論じられる際には、よく耳にする意見ですが、それが美しい自然な日本語で語られると論理による説得力を越えた次元の違う力を発揮するようです。良質のエッセーを有り難う御座いました。(栗山)

【日本人のアイデンティティー」私は34歳ですが、海外に行ったことはありません。日本のテレビ放送では、外国人が日本人をどのように見、如何なる評価をしてくれているのかを、必死に、必死に!報道しています。これを視聴していると不思議に、居ながらにして、日本人は今後何をなしていくべきなのか、何に気をつけて、正していくべきは何なのか、何が正しくて、何が間違っているのか、がなんとなく解ったような気分になります。

 それに、ゲストコメンテーターとかいう、海外通で、国内外の事情に非常に詳しい人が、外国の統計データと日本のアンケート結果なんかを持ち出してきて、「こうなんですよ!日本でもこうあるべきとは思いませんか!」なんて云われた日には、「オー!そうだったのか!なるほど!これはいかん!どうしよう!」なんて。

 つまり、日本人のアイデンティティーが、世界的に認められるためには、どうすればよいか?という間抜けな内容を世界中で確認し回って、安心しているのです。

 もともと日本人は、自身のアイデンティティーなど、重要視してこなかった。さらに、アイデンティティーが何であるかも考えていなかった。あるのは、法律や宗教を除いて、「世間の常識」と呼ばれるものだけ。私は、第二次世界大戦終戦まで長年培われた「世間の常識」こそ、日本人のアイデンティティーであったと考えます。いまから400年程前の江戸時代以降の日本史はおもしろいです。現代の国家の原始的状態が見られ、照らし合わせてみると、近年の日本の動きを予測し得るヒントがたくさんあります。

 ここで、一つ日本人のアイデンティティーを、江戸時代と現代を比較しながら思考してみます。

 江戸時代、士農工商の身分制度が存在し、徹底した封建制の環境下であったことは紛れもない事実ですが、現代でも教育制度を文部省が統括していることを考えると、当時の「世間の常識」の伝達・浸透過程は、容易に想像できます。このとき、現在の官僚、公務員、教師、警察役になったのが、当時の「士」すなわち「侍」であったといえるでしょう。当時の「士」のアイデンティティーとは「御上の意向」そのものであって、個人の主張などというものは為してはならないものであり、あったにせよ「御上の意向」に沿ったものでなければならなかったのです。例えば、「御上を中傷した罪により、貴様を成敗する」といったことが、当たり前の時代だったのです。

 結局、「御上の意向」に従う者は、「士」によって正しいとされ、これに反する輩は、「士」によって罰せられるというシステムが成立したといえます。「御上の意向」のうち、制度化されたものは法であり、それ以外で、法になりにくいものは「世間の常識」として残ったのです。

  当時、「世間の常識」は家族の中で、祖父母、両親、叔父叔母、兄弟によって子々孫々に教育されていきました。このときの「世間の常識」には、毅然とした正悪の判断基準がありました。例えば、同じ身分の年上の人には敬語を使用しなければならないとか、嫁は嫁ぎ先のしきたりに従うとか。もともと日本社会の狭い範囲で、長年に亘って土着し、人間関係を維持するのには、不可欠な共通の習慣がある方が便利なのです。江戸時代には、いや、第二次世界大戦の終戦までは、「従わなければ悪である」という厳しい「世間の常識」教育がなされていたといえます。つまり、アイデンティティーの教育です。

 江戸時代の「世間の常識」には、当然それまでの時代で獲得した、「日本の狭い環境で長年に亘って人間関係を維持するのには不可欠な習慣」、というものが脈々と残っていたと思われます。明治維新を経て、大正・昭和に至り、激動の社会変化を遂げてきたにもかかわらず、この頃のこの国は、日本人のアイデンティティーをほとんど損なっていません。間違った行為もたくさん犯しています。しかし、世界各国の意見を聞きまくらなくても、世界の日本に対する認識を少なくとも「脅威である」とうならせることはできていました。

 そして、昭和中期第二次世界大戦の終戦です。日本が敗戦しました。当時までほとんどの日本人が正しいと思ってきたことのすべてが否定されたのです。当然否定すべき差別や習慣もたくさんあったのですが、とにかく日本人のアイデンティティーそのものが機械的に、かつ欧米の意図的な方針によって否定されてしまったといえるでしょう。事態が急変したのです。

 現在、こと日本人のアイデンティティーに関して云えば、おそらく存在はしています。これは、先にも述べたとおり「世間の常識」的なものであるようです。しかし、戦前に比べてとんでもない欠陥があります。それは、子々孫々へのアイデンティティー教育が、祖父母、両親、叔父叔母、兄弟によってなされなければならないことであるのに、大方の人が文部省・学校・他人がやるべきことだと認識し、肉親の責任を認識していないことです。

 アイデンティティーなどというものは、肉親の泥臭いへんてこな教育でしか育たないと私は思っています。従って、最も深い問題は、アイデンティティーを持たない子供たちにあるのではなく、アイデンティティーの教育者足るべき両親が、戦後教育の欠陥なのか、教育者足り得ていないことです。一度否定されたアイデンティティーを本当にとり戻すのは並大抵の努力ではだめです。

 昨今の情報のグローバル化とスピードアップ、めまぐるしいニーズの変化は、確実に現代社会を刷新させています。我々は、現代社会の刷新に適応するのが精一杯であり、しかし一方で、子々孫々への配慮を怠ってきた事実が浮き彫りになってきてもいます。そのうち、人間としてのアイデンティティーさえあれば良くなるのではと思う程です。そろそろ明確な選択の時がきているのではと思います。

 私はいま、いっそのこと、こう思っています。戦前までのアイデンティティーは、良いものも悪いものもすべて強制しないこと。曖昧な判断基準の中途半端な教育など必要ないこと。そして、人間のエゴイズムが破壊の元凶であることを子々孫々に伝えること。  私の感覚では、残念ですが、今の日本人は、すぐに過去の日本人には戻れないのです。いや、戻ってはいけないのです。国歌斉唱や国旗掲揚を押しつけられても。(Inoue )

【変化する日本人の美意識】
今回の茶髪に関する投稿について、一部申し上げたい事柄があります。Mikiko BANさんは、

 「それにしても、この日本列島総茶髪化は、異国にあって、祖国を想う者にとって、大変気になる、うら悲しい情景である。
 日本人はもう「日本人」ではなくなりつつあるのだろうか」

と述べてらっしゃいますが、僕は「黒髪=日本人」だとか、「日本人なら日本人らしさを」なんていう固定観念はありません。

 若者は、「ファッション」として髪を染めているのです。それは、化粧やマニキュアや、好みの衣服を着るのを同じ感覚で、髪の色を変えているのです。それに対して、「日本人だからどうこう」と言う権利は誰にもありません。さらに、一部の若者の行動をとらえて、「日本の未来は心配だ」などとあまりにも仰々しい物言いだと思います。

 見た目だけで判断しないでもらいたい。茶髪でピアスでガングロでも、困っている人がいたらすぐに助けに行くような若者は日本には沢山います。実際、僕の友達が自転車で車にひかれたとき、運転手はおろおろしていたのに、すぐ脇にいた明らかに不良と思われるような、茶髪にピアスでそれこそマントヒヒみたいな髪型をした(あなたの言われる、「人間であることを放棄した」ような)若者が、すぐに助けに来てくれたそうです。それで、運転手に、すぐに病院に連れて行くように、指示してくれたそうです。

 もちろん、これも一例であり、あなたが目撃された電車の中で化粧する若者たちの例も一例に過ぎませんしかし、様々な若者たちが、様々な価値観で人生を送っている現実を受け入れて欲しいと思います。決して、自分の「固定観念」に捕らわれて彼らを色眼鏡を通して見ないでもらいたい。日本人の美意識が変化する・・・時代と共に変化していくのは当たり前です。ただ、その変化のスピードが近年ますます速くなっているのは事実です。

 いや、それに限らず、情報通信網の発達によって、情報の伝わる速度はここ100年あまりで爆発的に増加しました。特に、最近10年間のパソコン・インターネットの普及により、その傾向にはますます拍車がかかっています。今の若者たちのスピードに、年寄りが付いていけないだけなのです。どうか、ご理解下さるようお願い申し上げます。(金田)

【奇妙なものに興味を持つには健全な証拠】
 日本列島を覆う桜と茶髪 見ました。大丈夫、一過性です。3年は持たないと思います。若者が、奇妙なものに興味を持つというのはある面では健全な証拠です。(吉田)

【Do Japanese have identity?】
Hello. My name is Masaki Kawanami who is studying at University of Nebraska Lincoln as exchange program student. I read your article about 日本列島を覆う桜と茶髪… I am studying here for a year、 so I gradually miss the Japanese cherry blossoms and Japanese spring scenery.
  Before I come to study United States、 I have never thought of my identity toward Japan. But when I live in here、 I feel that I am really Japanese. I wondered whether Japanese have identity toward our country or not even before I came to United States. As you know、 Japanese public highschool try to avoid sing a Japanese national song ‘kimigayo’. Our Japanese history class、 we don’t study lot about current history what we did durnig the World WarII toward other Asian countries、 and we tried to hide our really Japanese history.
  Many Japanese don’t go out abroad for a long time. How can they motivate To have Japanese identity in current situation. I didn’t know how much I like Japan before I came to United States.
  I think that we have to change something about our education or our Attitude toward our countries、 Japan. Many young people don’t have any pride on our countries.
  In United States、 I met so many Asian or another countries peoples. Many countries are not advanced as same as Japan. However、 many of my friends are proud of their own countries……I felt sad that I noticed I didn’t have identity on Japan as same as they had. Something wrong in Japanese society. I noticed again after I read your article.