アフリカの果てに散った、ある企業戦士(5)--「家族」
10月14日、私たちは幸衛の遺骨を抱いて帰国の途についた。「私たち」というのは、佳子さん、友衛君、佳子さんの両親、そして武澄と私のことである。これまで「核家族」で暮らしていた私たちが、初めて「大家族」で海外を旅することになった。一人では背負いきれない悲しみも、「家族」がいれば 心強かった。その安らぎは、ふんわりした布団のような感触だった。
11日に佳子さんの両親と一緒に出張して来られた重工プロジェクト部の佐々木副部長が帰りも一緒で、遺骨がつつがなく運ばれるよう、道中もお世話になった。多くの方々の行き届いたご配慮により、15日午後4時、幸衛は無事祖国に戻ることができた。
一日おいて17日、私は郷里の高知に帰った。槙の垣根越しに祖父の時代からの松ノ木を見た時、ふと「安堵」という言葉が心に浮かんだ。どこからか金木犀の香りが漂ってきた。
和洋折衷の我が家のリビングルームのテーブルの上には、幸衛の幼い頃の写真とともに、たくさんの花や果物などが供えてあり、灯明代わりのキャンドルがともっていた。この一週間あまりの間、高知でも多くの方々が両親を見舞って下さったことがうかがえた。
幸衛が南アで着ていた制服の小さなセーターや、佳子さんがまだ高橋という姓を名乗っていた頃、幸衛に宛てた年賀状も置かれてあった。
幸衛は、溢れるほどの母の愛を受けて育った幸せな子供だった。乳幼児期をアメリカで過ごした彼は、豊富なミルクや食べ物のお陰で、はちきれんばかりに太った健康児だった。ウサギ小屋の日本に帰ってからも、母親がその、のびのびとした大らかさを失わせまいと、幼稚園にも入れず、手許で大切に育てた。真冬でも半ズボンをはき、象のようにガサガサな太い足を出して、ハリマオや月光仮面の格好をして、がき大将よろしくアパートの中庭をところ狭しと駆け回っていた姿が今も鮮やかに目に浮かぶ。
中学生の時、その頃から時々着物を着ていた母に向かって、こんなことを言ったそうだ。
「マミーは着物に真っ白のかっぽう着を着た姿が一番いいね。やさしく見えるよ」
高校に入って、幸衛は高橋佳子さんという女性に巡り合った。長いおつきあいが続いたが、幸衛が 日商岩井に入社すると、間もなく二人は結婚した。親を頼らない、新しい時代の型破りな結婚式だっ た。
学生時代は男女平等の教育を受けたはずなのに、結婚してからの佳子さんは、夫を立て、猛烈ビジネスマンの幸衛を献身的に支えてくれた。ヨハネスブルグでの通夜の折、佳子さんはこんなエピソードを語ってくれた。
「幸衛さんは、糊のパリッときいたワイシャツが好きだったんです。毎朝、バリバリと音を立てて、糊のきいたワイシャツに手を通す時、『今日も、一生懸命やるぞ!!』という元気が湧いてくると言っていました。でも、メキシコや南アのクリーニング屋から戻ってくるワイシャツはよれよれで・・・。だから、私が一生懸命糊をたて、自分でアイロンをかけていたんです。私、アイロン嫌いじゃないんですよ。こんなことでも、幸衛さんに協力できたら、と思って・・・」
私は、戦後教育を受けた佳子さんに「明治の女」を見るような思いがした。
「母」と「妻」という二人の女性に愛された幸衛は、その名の通り、幸せな男だった。(続)