高知の家のパソコンを開けてみると、数は少なかったが、幸衛から両親に宛てたe-mailがいくつか入っていた。父や兄・姉はある意味では理想を語っていられる恵まれた環境にいるが、弟はもっともっと厳しい「現実」のなかで生きていたのではないだろうか。
 その中で、苦しんでいたこともあったに違いない。遺言状のような、彼の精一杯の文章を見て、私は「幸衛は幸衛なりに頑張っていたのだ」と、初めて彼の胸のうちを知る思いがした。

1999年1月22日(兄宛てのメール転送)
 南アは危険です。報道の通りです。日頃から細心の注意をはらって生活しています。昔の南アとは別世界です。中南米も同様に危険で、私も色々知っていますが、「殺される」確率は比べものになりません。これが「アパルトヘイトがなくなった南ア」です。この「現実・事実」から目を逸らしてはならない--帰国までに自分なりの意見・結論を出したい、といつも思っています。

 「やっぱり黒人は・・・、所詮黒人は・・・」という結論ではあまりにも悲しすぎるので。でも、個人的には「伴家のアパルトヘイト論」という固定概念には捕らわれず、自分なりに考えたいと思っています。多分、人間そのものの本質、そして人間が人為的に作ってきた社会及びその制度に起因しているのではないかと思います

 少しずつ「特派員報告」(兄武澄が主宰しているメールマガジン「萬晩報」への寄稿のこと)をと思っていますが、連日新聞報道されている我が社の将来も自分にとり大事で、自分なりに「日商岩井は将来どうあるべきか」ということをこの機会に真剣に考えたい、考えなければいけないと思っているので、時間がありません。「日商岩井とは」という命題を考えることも、自分の肥やしになると思っています。

1999年5月26日
 母上様、いつもご無沙汰しており、お許し下さい。

 私はやっぱり忙しくし始めてしまいました。黙っていれば、ある程度余裕のある駐在員生活ができるのでしょうが、自ら仕事を作り忙しくしています。変なところが父親譲りですかね。

 最近はお父様もよくご存知のODA(日本からの協力案件)の仕事を積極的に始めています。但し、南ア以外の地域で、先日も隣国のモザンビークに車で国境を渡ってみました。

 ヨハネスブルグからモザンビークの首都マプトまで高速道路が建設中で、何れは素晴らしい幹線になる予定です。現在でも南ア側はアメリカに勝るとも劣らない立派な舗装道路になっていますが、モザンビーク側は、いつ幹線道路ができるのだろうかと思う程ひどい道路でした。

 ご存知かもしれませんが、モザンビークは世界最貧国です。一人当たりのGNPは100ドル以下で、バングラデシュよりもはるかに貧しい国です。道路の脇にとても住居とはいえない家屋が並んでいる村を通りました。

 そこでふと感じたのですが「南アの黒人はアパルトヘイトを経験した--これは彼らにとり最も悲しい歴史であるはずだーーでも、モザンビークの貧しい黒人はそう思うだろうか」と。これは伴家にとってタブーでしょうが、アフリカの貧困を考える場合に避けては通れないことではないでしょうか。

 帰路、国境を越えた瞬間、果樹園が広がっていました。往路には目に入らなかった美しい田園風景が続いていました。また「アパルトヘイト」を考えてしまいました。アパルトヘイトを是認するつもりは全くありません。アパルトヘイトがあったから富が生まれたということもできません。

 しかしながら、南アにアパルトヘイトがなく、有史以来黒人国家であったならば、現在の富があったかどうかは疑問が残ります。モザンビークになっていたかもしれません。

 最貧国モザンビークのレポートを本社に出しました。「胎動するモザンビーク」と題して。少し話題になっています。多分今回の南ア滞在は短期になると思いますが、ODAを通じて、お父様がご苦労なさった開発途上国援助の仕事の真似事をしてみたいと思っています。

1999年8月11日
 母上様、確かにE-mail拝受致しました。兄上家族が高知に集まる由、また賑やかになりますね!

 脱日本式経営が求められています。アメリカ式経済が主流になっています。そんな中で自分の会社がどう変わっていくのか、どう変えていくのか、この数年が勝負になると思います。同じ日本商社でもそれぞれ違った変化を余儀なくされるでしょう。

 政治と同様に会社も指導者の間違いが致命的になる時代になってきました。それを感じ取る経営者がいる会社のみが生き残れるのではないかと思います。

 「皇国の興廃この一戦にあり」という気持ちで毎日を過ごしています。 伴 幸衛

 新しい世代の幸衛が偶然にも私たちに残した言葉は、日本がロシアに負けて植民地になるかならないかの岐路に立った時、連合艦隊を率いて日本海海戦に臨んだ東郷平八郎が全艦隊に布告した言葉であった。
 10月25日、幸衛の葬儀・告別式が東京信濃町の千日谷会堂で、日商岩井の社葬にて執り行われ、引き続きキャピタル東急ホテルで「偲ぶ会」が開かれた。その日も秋晴れの美しい日だった。

 日本橋小網神社の服部神官ら4人の神職が、日本古来の伝統に則り、神式によって幸衛の霊を鎮めて下さった。奏上された祝詞の中には42歳で壮絶な死を遂げた息子のために父親が詠んだ歌が織り込まれた。

 「みづみづし 命は絶えぬ 最果ての 務めに励む その道すがら」(伴正一)

 冒頭の言葉は「みづみづし久米の子らが」で始まる『日本書紀』の有名な一節にちなんだものである。

 安武社長、兼松本部長、同期の松本さんによる、心情溢れる弔辞の朗読の後、横笛が美しい短調の調べを奏する中で、600人余りの方々が玉串を捧げてくださった。昔私たち家族のペットだった幸衛は、アフリカで命を絶たれたことで、いつの間にか私たちの手の届かぬ小さなヒーローになっていた。

 今日、11月7日は幸衛が逝ってちょうど一ヵ月になる。故人や残された私たち家族に寄せられた、多くの方々のご厚情に深謝しつつ、この姉から弟への「鎮魂歌」を終えることにしたい。(完)