イスラームの大祭「ハリラヤ・アイディル・フィトウリ」の余韻がまだ残っているころ、クアラルンプールの町に「赤」が目立ち始める。チャイナ・タウンを初め、市内のあちこちに赤い提灯が飾られ、赤い短冊に毛筆で「恭喜発財」「花開富貴」「福」「春」などの文字が踊る。
 本屋や文房具店には真っ赤なカードがずらりと並び、銀行でもお年玉である「紅包」(アンパオ)の袋の束が配られる。「今度は私たちの番!」とばかりにマレーシアの中国文化が自己主張し始めるのだ。

 今年のチャイニーズ・ニュー・イヤー(農暦新年)は2月16日。中国の旧暦はイスラーム暦と同じ太陰暦であるが、前者が3年に一度、13カ月目の月を加えて太陽暦との調整を図るのに対し、後者は太陽暦に比べ約11日短く、その分、毎年祭日が早まっていく。

 1996年から1998年まで、3回連続してイスラームのハリラヤと中国新年が重なった。32年に一度の二つの文明のランデブーである。

 HariRaya(大きな日)とGong Xi Fa Cai(恭喜発財)を結びつけた「Gong Xi Raya」という新語ができ、人々はこの「Double Festival」をめでたさ2倍として祝った。Gong Xi は、「ともに分かち合う」という意味のマレー語 kongsi と同音である。だから「Gong Xi Raya」はともに大きな日を祝う」という意味になる。

 マレーシアの人々は異なった文明の人々が隣り合わせで生きていかなければならない宿命にあることを真摯に受け止め、これまで歩んできた独立40年余りの道のりを感慨を持って振り返ったに違いない。

 ある者は21世紀のマレーシア社会のあるべき姿に思いを馳せたかもしれない。私はそれぞれの宇宙の神秘に対する民族による認識の違い、長い歴史の中で守られてきた文明の精髄としての暦(こよみ)について思いを巡らし、すっかり気宇壮大な気分になったものだ。

 今年から二つの暦はまた少しずつ離れていく。2029年の次の出会いまで。

 赤道に近い熱帯の地で、汗を拭きふき、師走のチャイナ・タウンを歩いた。花屋には金柑(キンカン)の鉢植えや菊の花束に混じって株の付いた梅の花やレンギョウが並ぶ。みかんは金への連想から、めでたい果物とされ、菊は香りがよく仏様が好まれると言う。レンギョウの中国名は迎春花である。

 それらの花は、隣に並んだ真っ赤な極楽鳥と呼ばれる現地産の花に比べて生気がなかった。私は厳しい冬の後、一斉に咲き乱れる北京のレンギョウの目のさめるような美しさを思い出し、春のない国でもなお、春を求めようとする南洋華人のけなげさに哀しみすら覚えるのだった。

 彼らは、19世紀から20世紀初頭にかけてまだ英領マラヤといわれたこの地に徒手空拳で、いわば清朝の棄民としてやってきた。南洋華人たちは中華文明の伝統の薄いこの熱帯の地で毎年どのような思いで「正月」を迎えたのだろうか。

 過酷な境遇に耐え「先苦後甘」「節倹貯蓄」「刻勤耐労」などを人生訓として生を紡いできた人びとにとって、年に一度、体を休めることのできる「正月」はまさに人生の「春」だったに違いない。そして彼らにとって「財をなすこと」は最高の「善」であった。だからこそ、この地では新年のあいさつは「新年快楽」や「新年好」ではなく「恭喜発財」なのだ。

 私が教える学生の中にも「母は小学校しか行かなかった」「母は文字があまり分かりません」「パパの家は貧乏だったので中学3年までしか勉強していません」などと作文を書いてくるものがいる。彼ら自身はマレーシア国民の新世代として、すくすくと育っているように見受けられるが、祖父母の顔には艱難辛苦の痕がしわとなって刻み込まれているに違いない。

 中国系の学生が主宰した中国新年前夜祭に招かれた。国民大学の大ホールの舞台に24個の大太鼓が並び、そのひとつずつに「立春」「雨水」「啓蟄」「春分」「清明「穀雨」などの名前が付いていた。私は見覚えのあるそれらの文字を見てハッとした。

 多文化社会マレーシアにあって日本と中国文明の近さに改めて気付かされたのだ。

 学生の一糸乱れぬ力強いバチさばきはすばらしかった。その響きは私の胸を突き抜けて心臓の鼓動を高めた。民族の「生」のリズムともいうべき「暦」は常夏の異境にあっても華人の間では常に24節気のリズムを保ってきた。

 農暦新年に始まり、4月の清明節、5月の端午節、9月の中秋節などマレーシアの華人社会では中華文明の伝統がいまも脈々と受け継がれている。