被爆した東南アジアの留学生を想う旅(3)アブドゥル・ラザク

広島平和記念資料館に展示されたラザク先生のパネル
留学生たちのこと考えるを想う・・・
南国から来て、冬は寒くなかっただろうか。
十分な暖房はあったのかしら。
食べ物は足りたのだろうか。
ひもじくなることはなかったのかしら。
ハラルの食生活はできたのだろうか。
1日5回のお祈りはどうしていたのかしら。
漢字を覚えるのはどんなにか大変なことだったでしょう!
お国の家族とは手紙で連絡が取り合えていたのかしら。
空爆や憲兵の監視は怖くなかったのだろうか。
・・・次から次へと浮かぶ ???
被爆までして、彼らはどうして日本を恨まなかったのだろう!?
ラザク先生は言う。
不自由なことや困難はいろいろあったが、知識を求める強い気持ちの方が勝っていた、と。だから戦争が終結した後も本当は日本に残って勉強を続けたかったのだ、と。

被爆後、野宿を共にした栗原明子さんに宛てたラザクの手紙(1945年9月7日消印)
(ダトー・ハジ・)アブドゥル・ラザク・ビン・アブドゥル・ハミドさんは1925年7月7日マライ(現在のマレーシア)・ペナンで生まれた。1944年に南方特別留学生として来日し、東京の国際学友会で日本語を学んだ後、広島文理科大(現・広島大)に進学。20歳になったばかりのラザクさんは爆心地から1・4キロの広島高等師範学校の教室で数学の授業中に被爆した。崩れた校舎の下敷きになったが、脱出。被爆して苦しむ市民の救助に当たった。
帰国後、タンジュン・マリムのスルタン・イドリス師範学校を経て、国語(マレー語)の教師として教壇に立った。1982年からは政府のルックイースト政策の下、日本語教育に携わるとともに、被爆体験や留学中の経験をマレーシアで伝えた。
リンク:🌙 親日家③ 日本語教育のラザク先生
マラ工科大学の執務室にて
ご自宅前にて
不思議な星の下
広島平和資料館の常設展の終わりの方に外国人被爆者数人に混じってラザク先生の大きな写真があった。下の方には息子のズリキフリー提供とある。
「ああ、先生、先生はやはり不思議な星の下にお生まれになったのですね。自らの意思というよりも、国家の意図で「南方特別留学生」と「ルック・イースト政策」という形で日本との関わりを持ったラザク先生。被爆という体験を伝え、平和を希求する使者として、亡くなられた後もこうして私たちの間で生きておられ、これからも生き続けていかれるのですね。先生はやはり大きな使命をもってこの世に生まれた方なのですね」 私はそんなことを考えながら、暫くその場に立ち尽くした。
ご子息に受け継がれる先生のご遺志
私はこの夏、ラザク先生の長男ズルキフリーさん(タンスリ・ダト・ズリキフリー・アブドゥル・ラザク。マレーシア科学大学元副学長「実質の学長」、マレーシア国際イスラーム大学元学長)のことを深く知ることとなった。父親の足跡を追って、近年2024年2月及び2026年8月に広島を訪れている。いくつかの映像を通じ、私は同氏に出会うことができた。ラザク先生の面影と重なるそのお姿には親しみを覚え、私は感動を抑えることができなかった。今年8月の来日の折には私たちが見た企画展「被爆した東南アジアの留学生」も見学されている。父親の遺志を継ぎ、マレーシアでも父の被爆体験を伝え、平和教育を推進したいと語っておられる。先生の心を受け継がれた素晴らしいご子息がいらっしゃることは大きな希望である。
🌰2024年の映像
リンク:マレーシア人被爆2世 「あの日」の父の姿を追う(YouTube・2024年2月の広島訪問)
リンク:英語版 A Malaysian second-generation A-bomb survivor’s promise with a hibakusha(YouTube)
🌰2026年の記事・映像
リンク:戦争の痛みは国を問わず「同じ」 被爆した留学生の家族が広島を訪問(朝日新聞)
リンク:マレーシア人被爆2世の広島訪問と被爆者との平和の約束(YouTube・2026年8月)
RAZAK SENSEI Gallery
もう一つのビッグニュースは今年8月6日にマレーシアのスルタン・イドリス教育大学国立教育博物館内に「RAZAK SENSEI Gallery」がオープンしたことだ。ラザク先生は日本から帰国後、同大学前身の師範学校で学び、マレー語の教師となった。被爆して九死に一生を得た先生は、母校でこれからも生き続けられる!
🌰リンク:ラザク先生ギャラリー開館について(TSS)
最後に
私はこの夏、ラザク先生と「再会」し、先生をより深く知ることが出来たことを幸運に思っている。ラザク先生について特記すべきことを記してこのコラムを終えることとしたい。
❤ 先生は日本語を愛して下さった。日本語は美しく、音の響きが良くて、繊細な言葉、特に日本女性の話す日本語は美しいと常々おっしゃっていた。1982年にルックイースと政策が始まって日本語教育が盛んになった時、日本語教師たちのリーダー的存在となられた。ラザク先生の日本語教育への貢献を私たちは忘れてはならない。
❤ 先生は単に言葉を教えていただけではない。日本語教育を通して、(またマレー語教育を通して)人材育成に努められたのだ。日本文化(特に日本の「精神」)というものを伝えることに力を注がれた。先生は単なる語学教師ではなく、人を育てるという意味で根っからの「教育者」だったのである。
❤ 先生は自宅の隣のモスクの責任者を務めるなど、生活の中でイスラームを大切にされていた。先生の中では古き良き時代の?日本人精神と敬虔なムスレムの心が何の矛盾もなく併存していた。イスラームと日本文化はとても近いものがある、とよくおっしゃっていた。先生の中のイスラームを忘れてはならない。
先生、ありがとうございました!
どうかアッラーのご加護がありますように!
ラザク先生がお好きだった歌を贈ります

・・・(略)題字は私たちが心より敬愛するラザク先生にお願いしました。先生は1944年南方特別留学生として日本に留学されましたが、戦時中の苦しいご体験にもかかわらず、50年以上にわたり日本語と日本への愛情を持ち続けられ、特に1982年に「東方政策」が始まってからは、日本語教育界の重鎮として活躍されています。
ラザク先生が昨年10月、ちょうど終戦50年の年に「国際交流基金奨励賞」を受賞されたことは、マレーシアの日本語教育史における記念すべき出来事の一つであったことをご報告し、創刊のご挨拶とさせていただきます。
クアラルンプール日本文化センター(国際交流基金)のニュースレター(1994年3月)に掲載されたラザク先生の『Quest for New Knowledge in Japn』(日本における新しい知識の探求)

先生のご自宅の居間にあった本棚。恥ずかしながら、私の『マレーシア凛凛』もありました...。
リンク:🌰 水,水…、み…ず…をください!
参考:
1.オスマン・プティ著、小野沢淳ほか訳『わが心のヒロシマーマラヤから来た南方留学生』(勁草書房、1991)
2.宇高雄志著『南方特別留学生 ラザクの「戦後」』(南船北馬舎、2012)
3.かつおきんや『マレーシアの語り人』(汐文社、1985)
4.藤原聡他「アジア戦時留学生ー トージョーが招いた若者たちの半世紀」(共同通信社、1996)
5.『Razak Sensei』(スルタン・イドリス教育大? 2015)




