翻訳という文化交流について考える
マレーシア国民大学の同僚であるタイバ・スレイマン女史が翻訳した「恍惚の人」(有吉佐和子著)のマレー語版が国立言語書籍研究所から出版された。私の知る限り、彼女はマレーシアで日本文学の翻訳を手がけている唯一の人である。 英語からの重訳でマレー語になっている日本文学作品は若干あるが、日本語から直接マレー語に訳されたものは彼女の作品ぐらいしかない。 彼女はこれまでに「華岡青洲の妻」(有吉佐和子)と「こころ」(夏目漱石)を翻訳出版している。
他方、マレーシアの文学作品の邦訳はどうだろうか。 マレー文学が十数冊、華人文学が数冊ぐらいではなかろうか。
これは日本とマレーシアの関係の意外な一断面を示している。
マレーシアは1981年より「ルック・イースト・ポリシー」を掲げ、これまで5千人以上の留学生や研修生を日本に送ってきた。また、マレーシアでは1400社以上の日系企業が経済活動を行っており、1万2千人以上の在留邦人が滞在している。 日マの関係は緊密且つ友好的であるといえる。 しかし、一歩踏み込んだ学術交流、相互理解となると、翻訳事業の例が示すとおり、日マ関係は驚くほど希薄なのである。
日本の存在が大きいマレーシアで日本関係の翻訳書が少ないのはなぜだろうか。
まず、考えられるのは、マレーシアでは英語が普及しており、知識人は英語で日本関係の情報を得ていることである。中国系であれば、中国語で情報を入手している者もいるかもしれない。
つぎに思いつくのは、一般的に言って、マレーシア人は読書の習慣があまりないということである。 マレーシア人は平均して一年に本を2冊しか読まないそうだ。 本が売れないのは,日本関係に限ったことではない。
また日本語からマレー語への翻訳という仕事は(技術産業関係は別として)職業とは結びつかず、翻訳者を目指す人もあまりいないし、その育成もなされていない。
そんな中でタイバ女史の存在は貴重だ。 彼女は、マラヤ大学の中国学科を卒業している。マレー系で中国語を学ぶ人は珍しい。 当時、中国学科の学生は日本語も必修だったらしい。 自分の文化とは全く異質な「ひらがな」や「漢字」と一つ一つ格闘しながら、この東方の国の言葉と文化を自分のものにしていった。そして、その時出会った日本人の教師(青年海外協力隊員)との縁がきっかけで、日本留学が実現した。
日本で修士を取った後、マレーシアに戻り、国民大学で20年間教鞭をとっている。 国民大学には日本研究/日本語学科がないので、ずっと一般外国語としての初級中心の日本語を教えてきた。日本には、4回長期滞在をしている。
そんな彼女が、お金儲けとはあまり縁のない翻訳をこつこつとやっている。
一文一文丁寧に、時には辞書を調べながら言葉選びをし、ワープロをたたいて翻訳している姿を見ていると、深く頭の下がる思いがする。文化交流とは何と息の長い、しんどい仕事なのだろう。
その国の翻訳書がどのくらいあるかで、相手国との距離、或いは相互交流や相互理解の深さが分かるのではないだろうか。翻訳書の数は、国と国の関係を示すもう一つのバロメータになるかもしれない。その点で言うと日本にとって欧米は本当に近い存在なのだ。 そして、残念ながらマレーシアと日本はまだまだ遠い間柄だと言えよう。
5月24日付けの華字紙一面トップに「マレーシア・中国国交樹立25周年を記念して「水滸伝」のマレー語翻訳出版が決まる」と言う記事が載った。中国系マレーシア人の青年の愛読書の一つが「水滸伝」なのに、同じ国民でありながら、マレー系は中国文学をほとんど読んだことがなかったことに改めて思い至った。
マレーシア国内においても民族間の本格的な相互交流、相互理解は緒に就いたばかりだと言えよう。