私が教鞭をとっているマレーシア国民大学の学生は、マレー系、中国系、インド系、その他の先住民族など多民族で構成されている。漢字に対する親しみから、日本語を履修する学生は圧倒的に中国系が多い。その中国系マレーシア人の言語生活はこんなふうである。

 国立大学であるから、入学試験(入学資格試験)は当然のことながら国語であるマレー語で受けて入学してきている。授業も基本的にはマレー語だ。しかし友だち同士の会話は相手により中国語(マンダリン)、マレー語、英語を巧みに使い分ける。

 新聞は中国紙を読む者が多く、テレビやラジオのニュースや番組も中国語で聞くことになる。家では出身の広東、福建、客家などの方言を使う。彼らは4つないし5つ目の言語として日本語を勉強しているのだ。

 私は授業を英語で行っているが、そのことについて、大学側に事前に断ったことはない。授業を進めていく上で支障を来したこともない。英語で説明を聞いた学生たちはそのまま英語でメモをとる者もあれば、中国語やマレー語に「変換」して理解している者もいる。

 試験はマレー語で行うので、翻訳の練習はやはりマレー語から日本語にということになる。学生の興味を喚起するために中国語を使うこともある。言ってみれば、私のクラスの授業は言語的には「チャンポン」なのだ。

 実はこのチャンポンが楽しい。学生たちと日本語を英語、マレー語、中国語など、同時に複数の言語との比較の中で観察していくと、思いがけない発見がある。私にとっては日本語が、学生にとってはそれぞれの「母語」が、世界のさまざまな文化の中で相対化されて見えてくるからだ。

 学生たちに日本語学習の動機を尋ねたことがある。「いまの時代、日本語を話せると有利だ」「将来、日系企業に勤めたい」など実利的な目的を上げる者がいる一方で、すぐに役立たなくとも日本人への尊敬の念や日本文化に対する憧れから、日本語に興味を抱く者も少なくない。

 ハッとさせられるのは、新たな言語を学ぶことを通じて異質なものに触れることが、自分たちを高め、豊かにするのだという成熟した考えを持つ若者が多いことだ。

 マレーシア人はスピーチ好きな国民だが、聴衆に他民族が混じっていると愛嬌で、挨拶などにその民族の言葉を織り混ぜることがよくある。これは他者に対し、「あなたの存在を意識していますよ」「あなたに関心を持っていますよ」という意志表現であり、多民族国家マレーシア式の心遣いでもあり、思いやりでもある。

 マレーシア人の心根の優しさやマレーシア社会が持つ包容力は異なった文明の言語を学ぶという地道な苦労や、身につけた言葉をためらわず積極的に使おうとする努力の積み重ねの中で培われている。マレー文明、イスラーム文明、インド文明、中国文明、そして西洋文明を背景にしたマルチ言語社会であるマレーシアという国で暮らしていると、単一言語の世界にどっぷり浸っている日本との対比が鮮やかになってくる。