「華人の世界(4)」は「Pak Ling (リンおじさん)の涙」を再掲する。


再掲

Pak Ling の涙 ースパン国際空港開港式

2000年2月9日

 Pak Ling、リンおじさん(いや、リン兄さんと呼ぶべきか)。坂本九と菅原洋一を足して2で割ったような、見るからに「福」をもたらしてくれそうな、大柄でふくよかな人。56歳。与党国民戦線(BN)の一翼を担うマレーシア華人協会(MCA)の党首、そして1986年から運輸相の座にあるリン・リォンシク(林良実)を、私が密かに、そう親しみをこめて呼ぶようになったのは一年半前からである。

 あれは、スパン国際空港(KLIA)の開港式でのことだった。1998年6月27日、成田空港の十倍以上の規模を持ち、エコ・メディア・シティを手がける黒川紀章が「森の中の空港、空港の中の森」という「共生」の理念に基づき設計した新空港がクアラルンプールから約50キロ離れたスパンにオープンした。

 発案から8年、5年弱の歳月と90億(当初予算210億)リンギットを費やして完成した同空港は、経済危機という逆風を突き抜けて、21世紀への夢をかけて華々しくデビューした。

 私はその夜の式典をテレビで見ていた。最先端のテクノロジーを駆使した未来志向のモダンな空港のオープニングにふさわしく、国王や首相、大臣たちの服装は、いつものカラフルなバジュ・マラユ(マレーの民族衣装)やバティック・シャツではなく、スマートなタキシードやダーク・スーツだった。

 マハティール首相のスピーチに先立ち、国王に事業完成の報告をしたのは、この国家一大プロジェクトの責任者だったリン運輸相である。

 私は初めてリン大臣のスピーチをフル・テキストで聞いた。もちろんマレー語である。何度も「Ampun Tuanku」という言葉が挿入された。「Ampun」 は「お許し下さい」、「Tuanku」 は「陛下」という意味で、スルタンに向かって語りかける時に使う呼びかけの言葉である。歴史ものを扱った舞台で聞いたことはあったが、実際に国王に向かって使われるのを聞いたのは初めてだった。

 独立後41年、農業国から工業国へと目覚しい発展を遂げてきたマレーシアが国家の未来を見据えて大胆に実現させた新国際空港の完成。それだけでも十分に感動に値するのだが、私は加えて非マレー系のリン大臣が国王への報告スピーチを行い、この晴れがましい役目を担ったことにいたく感動した。

 スルタンを国王に頂くこの多民族国家が、真に多民族国家であることを証明し、独立時に選んだ「国のかたち」が定着したことを物語っているように思えたのだ。

 マレーシアの華人たちは、二重の喜びと誇りを感じていたのではないだろうか。そして、リン大臣の心中を察して私は思わす「Pak Ling !」と叫んでしまったのである。

 1998年という年は、歴史的なハプニングが続いた年だ。9月、クアラルンプールで英連邦競技大会(SUKOM)が開催された。これもまた国家の威信をかけての大事業だったのだが、1997年7月にアジアを襲った経済危機やヘイズ(煙害)という予期せぬ大嵐に見舞われ、一時は開催を危ぶむ声さえ聞かれた。更には、開催直前にアンワル副首相の解任という、マレーシア人(特にマレー人)には辛い事件も起きた。

 だが、10万人を収容するブキット・ジャリル・スタジアムで開催されたSUKOMの開会式は実にすばらしかった。1964年の東京オリンピックのあの感動を思い出してもらえばよい。テレビ中継はたびたびVIP席を映し出していたのだが、マハティール首相夫妻の後ろにリン大臣の顔が見え隠れしていた。

 式典のクライマックス、選手入場になると皆総立ちになった。首相も大臣たちも必死でグラウンドに向かって声援を送った。私はその時、白いハンカチを振る柔和なリン大臣の目にキラッと光る涙を見たのだった。

 それからというもの、私は「Pak Ling」を「ウォッチ」するようになった。マハティール首相やアンワル前副首相の陰に隠れて目立たないけれど、この人物の国家運営における功績は大きいのではないかと。そして、マハティール首相が「オヤジ」なら、リン大臣は「女房」ではなかろうかと。

 勉強不足で、私には政治の内幕はわからない。リン大臣が政治的にどれほどの力を持っている人物なのかも知らない。MCAという特定の政党を支持しているわけでもない。ただ、この国の平和と安定は、世界でも稀な「ブミプトラ政策」とともに、リン大臣に象徴されるような穏健な華人の隠れた功績が大きいのではないかと、ぼんやり感じているのである。