数日前にある催し物で、今日のコラムに登場するS夫人(マハティール首相の義姉)にお会いした。最近はおみ足が悪く、歩くのに不自由をなさっている。近づいて挨拶をすると、夫人も私と同じくらい喜んで下さった。「まあ、こんなところで貴方に会えるなんて何と嬉しいことでしょう。・・・私はね、今でもこうして出かけて来るのよ。」

 昔の好奇心、勉学心は少しも衰えていないようにお見受けした。私はそばにいたくて、肩を貸してさし上げた。夫人の体から、体温の温かさが伝わってきた。それは80年の激動の時代を生き抜いてこられた老婦人の何ともいえぬ不思議なぬくもりだった。その夜、私はあの「クリスマス・ケーキ」の話やマレーシアの先人たちから聞いた話をもっと多くの日本人に伝える努力をし続けなければ、と心に誓った。季節外れの話だが、再掲したい。


再掲

戦時下のクリスマスケーキ

1999年12月22日

 先週から、広々としたコンドミニアムの敷地内にクリスマス・ライトがついた。ガードマンのいる入り口あたりからずっと、私が住んでいる棟まで、赤、青、黄、緑の豆電球が連なって、眠りについた緑をやさしく照らしている。

 断食をしているイスラーム教徒もいれば、クリスマスを美しく演出して、聖なる夜を心待ちにする人々もいる・・・。この同じ空の下で。何という平和で美しい風景なのだろう。

 クリスマス・ツリーやイルミネーションの季節になると、私は決まって幼い頃のことを思い出す。戦後間もなく、まだ日本が貧しかった頃、私たち一家は数年サンフランシスコに住んだことがある。子供心にアメリカの「豊かさ」が強く心に焼き付いた。

 クリスマスの夜のドライブが忘れられない。その頃は亡くなった弟幸衛がまだ1歳にもなっていなかった。家族でクリスマスのイルミネーションが美しい高級住宅地を車でまわった。そのあたり一帯の家はどこも、前庭にツリーを、そしてドアや窓をそりに乗ったサンタクロースや雪の模様などで思い思いに飾っていた。その夢のような美しさに私たちは羨望の溜め息をついたものだ。

 友だちの家のリビングルームには大きなツリーが飾られ、たくさんのプレゼントが子供たちに夢を運んでいた。振り返ってみると、私の異文化との最初の出会いはこの「クリスマス」だったのかもしれない。

 今夜はクリスマスに因んだマレーシアのお話をしたい。

 これは大分前にあるマレー系政府高官夫人のお姉様に聞いた話である。80歳近いムスリムの方である。残念ながら詳しいことは忘れてしまったので、うら覚えのままお伝えするが、いつかチャンスがあれば、もう一度正確な話を聞いて記録に残したいと思っている。

 日本占領下のマラヤ。私はまだ若かった。ある日本人行政官の秘書をしていた。その日本人(Y氏としよう)は、もちろん単身赴任(独身?)だった。Y氏は口数は少なかったが、ディシプリンのある立派な方だった。私はY氏から多くのことを学び、また可愛がってももらった。やがて私たち家族がいろいろと彼のお世話をするようになった。

 ある時、私たちは彼がクリスチャンであることを知った。彼はそのことを隠しておられたのだが、私は母とケーキを焼いて、クリスマス・イブにこっそり彼の家に届けた。

 「Merry Christmas !」の言葉にY氏の目が潤んだ。

 やがて、終戦。日本が負けて、Y氏は帰国することになった。お互い複雑な思いだった。お別れは悲しかった。

 「Sさん、新しい時代がきます。機会があったら、是非英国へ留学なさい。そして、ケンブリッジ大学で法律を勉強しなさい」

 別れ際に、Y氏は私にそう言った。この時、私は初めてY氏が英語に全く不自由しないこと、英国で法律を学んだ方だったことを知った。

 Y氏のことは折に触れて思い出した。ある時日本を訪問した折、Y氏を探してみることを思い立った。知人の協力で新聞広告を出してみた。私はあまりを期待していなかったのだが、偶然にもY氏がその記事を読まれ、私たちは四十数年ぶりに再会することになった。

 Y氏は上品な奥さんとともに、私に会いに来られた。私たちは再会を喜び合い、お互いの家族や国の、この半世紀の出来事を話し合った。私はY氏が戦後も日本の法曹界で活躍されたことを知って、嬉しく思った。Y氏もまた私が歩んだ軌跡に驚かれていた。

 別れの時、Y氏はマレー語で挨拶された。初めて聞くマレー語だった。

「Sさん、私は今マレー語を勉強しているんですよ。今度は私たちがあなたの国の言葉を勉強する番です」と、ぽつりと恥ずかしそうに言われた。  

 私の記憶違いもあるかもしれない。だが、あの時聞いたエピソードは、その老婦人の美しい語り口とともにいつまでも私の心の中であかりを灯している。気品とやさしさを秘めて静かに揺れるクリスマス・キャンドルの炎のように・・・。  Merry Christmas !!!