数日中にアクセス25000を突破します。この2ヵ月間は仕事の方が忙しくてコラム執筆に時間を割くことがほとんどできず、残念でした。にもかかわらず多くの方々に引き続き立ち寄っていただき感謝しております。今日のコラムは皆様からいただいたメールのご紹介の続きです。一年前ホームページを公開した頃の興奮と感動が蘇ってきます。
●おじいさんと広島―拙い日本語で語られたある日マ交流史
               (MSNジャーナル、萬晩報転載)

■日本語弁論大会でのジュリア・イスマイルさんのお話を読んで、思わず涙ぐんでしまいました。「ごめんなさい」と言えたおじいさんも、それを素直に受け入れたジュリアさんも、どちらもすばらしい。正直に言って私は、戦争で日本がマレーシアにしたことを十分には理解していませんでした。
 日本を愛してくれるジュリアさんのような人に対して恥ずべき事と思います。しっかりと顔を上げてマレーシアの人に会えるようになるために、もっと勉強しなければなりません。(三浦)

■今日、MSN News & Journal で「おじいさんと広島―拙い日本語で語られた国際交流」を発見。読みました。涙がこぼれました。(今、会社。勤務中なので、マズイ、マズイ) なんだか心が晴れます。ありがとうございました。(長谷川)

■読んでいて、涙がでそうになりました。私は、去年2月までシンガポールに4年間勤務していました。シンガポールでの対日感情は、日本の経済発展を一つのモデルとしてみているため、若い世代のあいだでは表面的には悪くないといえると思います。(政治的には、日本への期待はほとんどありませんが。)
 ただ、日本人が足を踏み入れることができない場所があるとか言う噂もあり(本当にあるか否かは確認していませんが)根底には第二次大戦で日本が行ったことは忘れられてはいません。
 1995年に独立30周年記念の催し物がありましたが、過去の歴史を短くしたマスゲームのなかで、自転車に乗った兵隊がシンガポールに攻め込んでくる場面がありました。明らかに日本の銀輪部隊です。日本人として、戦慄を覚えましたが、持っていた籏は黒一色で日の丸でなかったことに少しほっとしました。このように、かれらの歴史の中にも明確に刻まれていると言うことを深く記憶させられました。
 それに反して、日本の歴史教育はどうなっているのだろうといつも考えさせられます。受験教育の中で、近代史・現代史の重要性が完全に見逃されています。また、歴史教育の目的もあまり明らかではないように思います。(私は45歳ですが、少なくとも私の世代の中等・高等教育ではそうでした。
 つい、いつも考えていることを書いてしまいました。今後も、アジアの状況をお伝え下さい。(小泉)

■萬晩報8/4号を読んで、涙が止まりませんでした。(実は、会社のパソコンでみていたもので、昼休みとはいえどうしようかと思ったほどです。)
 日本人として、私は戦争体験はありませんし、以前もっと若い頃は(10代~20代前半)「わたしがやったんじゃないのに、なんでいつまでもわたしたちまでが、戦争中に日本がやったことのとばっちりを受けなくゃいけないの!」と憤りを感じていたこともありました。
 自分の知らないことで、ひとくくりに責任というものをおわされることが苦痛でなりませんでした。今でも、そういう気持ちが全てクリアーになったわけではありません・・・。
 その後、現在は通ってはいませんが、ある宗教にふれて、人間として、日本人として、その家系の人間として、それぞれの立場で、連帯責任というものがあるということを強く感じました。
 わたしのなかで、自分が関わったわけではないけれど、戦前・戦争中を通じて日本という軍国主義の国がどのようなことをしてきたかという罪の意識は常にあります。
 いまでも、当時の傷を持ち続けている人たちに何をしてさしあげたらいのか、私一人がどうこうできることではないんですが、様々な本や映像にふれるたびに思います。ただの一介のOLのわたしにいったい何が出来るのか、と。
 ジュリア・イスマイルさんの感じた広島は、とてもやさしい日本でしたね。ここで、「ごめんなさい」と言ったおじいさんはいつも、苦しかったでしょう。
 戦争で、自分が望んでもいない戦争にかり出されていく男性たち。国に逆らったら、それだけで反逆者として、獄中でたくさんの人々が拷問死させられていった、日本人にとっても、暗黒の時代でしたでしょう。
 前線へ行ったら、命がけの恐怖をあじわい、恐怖からのがれたくて、現地のひとを殺したでしょう。その恐ろしさから逃れたいために、現地の女性を襲ったことでしょう。どちらも受けた傷は深く、誰にも癒せるものではないとしたら、戦争に負けた日本人は、必死で忘れようとしたでしょうし、一方的に攻められた国の人々は、日本人の恐ろしさを子供たちに語り継いできたことでしょう。どちらにとっても、いい事なんてこれっぽっちもない過去でしょう。
 そんなことを考えていた矢先に、この文章が届きました。だから、涙が出ました。とまらない涙でした。すべてではないけれど、わたしもまた癒されました。ジュリアさんに、平和記念公園であった「ごめんなさい」と言ったおじいさんに。名  これからも、貴重な現地から感じた見た世界をわたしたちに届けて下さい。(神戸)

■現在は24歳で、ニューヨークでインターフェイスセンターというところで働いています。ここで私は、宗教間、異文化間の対話を深め世界の平和に少しでも貢献できたらと思って働いています。
 今日は、ニューヨークの仏教寺院でNo More Hirosima というお祈りがあります。現在、7人の日本人の高校生・大学生が夏休みの研修ツアーに来ていて、彼らは今晩千羽鶴をお供えします。時間も広島に原爆が落とされた時間に合わせてこちらの8月5日午後7:15(日本では8月6日午前8:15)に色々な宗教者や一般の人が集まってお祈りします。
 今日はたまたまMSNのページでそちらの記事を拝見いたしまして、とても感銘を受けたのでメールを送らせていただいた次第です。(山添)

■「おじいさんと広島」を読ませていただきました。感動致しました。紹介していただいてありがとうございます。私は上海出身の地球人で、今大阪のソフトウェア会社で働いております。上海外国語大学日本語学部卒で、1990年度の「上海市日本語弁論大会」に参加致しました。その後、京都外国語大学に2週間ほど日本研修旅行を招待されました。その時、広島へも行ってきました。また、恩師は現在広島在住で、伴先生と同じように、ただし上海外大で講師され、私たち中国の人に美しい日本語を教えて下さいました。ネットでお会いできて、本当に幸いに思います。(地球人)

■思いがけずジュリア・イスマイルさんの消息を知り驚いています。私の娘が広島女学院高校に在学中に留学されていて、日本語スピーチコンテストにきれいな民族衣装を着て出場され、 この「おじいさんと広島」のスピーチに 心打たれたのを覚えています。私はテレビで見せていただきましたが、娘は確か会場に応援に行ったはずです。
 マレーシアの話になると「ジュリアさん今どうしておられるかしら」と懐かしがっておりましたので、早速沖縄で働いている娘に知らせます。

●マラッカで出会った「日本占領」に関する資料

■昨年私もマラッカへ行って来ましたが,「独立宣言記念館」は残念ながら,中へ入っている時間がありませんでしたので,英文の説明文は大変参考になりました.原文をそのまま載せて戴き,有難うございます。(小林)

■私がアメリカに住んでいるからか、アジアと西洋の関係についての文も、とても興味深いものでした。日本占領に関する英文解説の内容は、私にとっては意外でした。大変参考になりました。マレーシア首相の西洋と日本、韓国に対する意見も、わかるような気がします。 (齋藤)

■私は、科学系の博物館屋ですが、「なぜ、ヒトは愚かしい戦争を行うのか」ということを自分のテーマとしています。そういう立場で調べていくと「何ごとも一方的な見方をしては、いけない」ということが、最も大事であるというこを痛感します。
 戦争当事者になろうとしているどちらかが一方的な見方をして判断材料とした場合、最大の危機が訪れると思います。(アジアに対する100%加害者意識は、転じて100%必要な戦いであったとなる危険を孕んでいます) そういう点で、評価はどうであれ、この見方は貴重です。(佐藤)

■マラッカで出会った「日本占領」に関する資料インターネットで読ませて頂きました。
 以前に96年10月24日付発行週間文春に猪瀬直樹氏が書かれた記事「マレーシアの「歴史教科書」に見る日本軍の功罪」に興味を引かれそういえば歴史の関連から我々はどういうふうに見られているのかと考えたり、また第二次世界大戦の評価に付いては米英の一方的裁断と隣国中国韓国にみる轟々たる非難の嵐に我々は必要以上に肩身を狭くしてとらえているのではないだろうか。
 あるいはそういう型枠にどこからか知らず知らずのうちににはめられているのではないだろうか。それこそが第二次世界大戦に飲み込まれてしまった当時の世界の潮流ではなかったのか。この繰り返しは歴史の繰り返しへと続くのか。(村上)

●タクシー・ドライバーのよもやま話

■タクシー・ドライバーのお話は”まさにその通り”と言った感じで笑ってしまいました。毎日タクシーに乗っていますが、ちょこちょこと交わす運転手さんとの会話は、後に引きずるものがないからか(一人の乗客に過ぎないので)気を張る必要もなく楽に感じます。運転手さんがマレー人のときは、マレー語の練習の場にもなりますし。相手が何を言ってるか分からないときも、適当に合槌を打ったりして。
 KLに3年もいるとタクシーに乗ることが当たり前のことになり、立ち止まってタクシーの運転手さんと交わす会話のことなど考えたことがありませんでしたが、伴さんのお話を読んだ今、明日のタクシーの運転手さんとは何を話そうかなあ・・・と考えている私です。旅行者としてKLにいればもっといろいろなことに感動し驚くのでしょうが、3年もいると、本来なら驚くべき事が、当たり前のことのように思え、マレーシアの生活に対し鈍感になっているのかもしれません。
 来たすぐの頃は、運転手さんに騙されはしないだろうかと、目的地に着くまでびくびくしていましたが、今はタクシーに乗った瞬間、休日の予定や仕事のことを考えたりしています。心に余裕ができたことはいいことかもしれませんが、慣れのせいで感動する心を忘れないようにしなければと伴さんのお話を読んで改めて感じました。(在マ、伊東)

●マレーシアの若者が見た「日本の国際化」

■ご指摘の通り、自分の中に 国際化=西洋化(ヨーロッパ・アメリカ)という感じが強いのを感じております。いつかは役に立つだろうと、細々と英会話を続けております。
 自分の中にある偏見「ヨーロッパ・アメリカは華やか、アジアは泥臭い」というイメージがあるように思います。やっぱり、アジアを実際に一度旅行してみることが必要でしょうかね?(清水)

■日本と比較したマレーシアを如実に表していると思いました。(植田)

●炎天下の日本語学習

■ChineseとMalayのカップルの話であることと、伴さんとタンさんとの日本語での会話をMalay人の彼氏にbahasaで訳せたから印象に残っています。

●号外 救救トルコ、快快行動!(MSNジャーナル、萬晩報転載)

■マレーシアはじめ、アジアの方々の親日度が、日本人が考えるより数倍強いということは、香港に住んでいる私も強く感じます。ですが、それほど、マレーシアの方々が、あの阪神大震災のときに活動してくださっていたとは知りませんでした。本当に感動しました。(大嶋)

■「救救トルコ、快快行動!」の記事、とても感動しました。あの阪神大震災に対してマレーシアやフィリピンなどの国々の人たちがそのような暖かい援助を日本にさしのべていたことはまさに驚きでした。「貧者の一灯」と言ったら当地の人々には大変失礼かもしれませんが、この言葉の持つほのぼのとしたヒューマニズムを強く感じました。(和田)

■トルコの地震の惨事と神戸地震の記事で、普段報道されないマレーシア他、外国の人々の温かい心に触れることができました。国の経済的な豊かさとは全く離れたところで、そのような思いやりを持てるということは、素晴らしいと思います。
 私は、国際協力に興味がありますが、一つの大きなプロジェクトを、ということに目が向きがちです。このような、人としての想い大切にしていくことを忘れないようにしていきたいと思います。 又、援助される側、する側は、変わることもあり、どこか、日本には援助をするというおごりと、援助を受けることに対する抵抗感が感じられます。
 もっと、このような心温まるエピソードを日常的に紹介して頂けると、人の感じ方も変わるのではと思いました。ありがとうございました。(山崎)

■阪神大震災の2ヶ月後、私は父と共に現地に行く機会を得ました。当時高校生だった私に、父はあの惨状を見せたいということで現地へ行きました。そこで印象に残っているのは倒壊したビルや、熱で曲がったアーケードだけでなく整然と並んで順番を待つ人々、家族や家を失い途方にくれる人、復興を目指して工場から聞こえる槌音など、人に関するものも多いのです。
 今日、伴さんの記事を読んで、阪神大震災での人に関する思い出がもう一つ増えました。日本国内や関係者だけでなく、世界中の人々が心を痛めてくれた、手を差し伸べてくれた、缶詰ではなく刺身を送ろうとしてくれた。そのことに本当に感謝したい。
 私は被災者ではないにもかかわらず、はあの時何もできなかった。今、トルコで同じようなことが起こっている。何もできなかった後悔を繰り返さないためにも、世界中の人々に感謝を表すためにも、何か行動できないか、自問しています。(中尾)

■いままで、香港、台湾、中国といろんな国で働いてきて、このマレーシアだけは、国をちゃんとみないで、仕事だけで、決めてしまいました。物価はやすくないし、車はないから、そとにでられない、自由はないし、仕事もいつも夜遅くまで、ほんとにたいへですけど、でも、そうなんです。人はとってもやさしい。ほんとの笑顔があって、感動がある。それは、すごくかんじるんです。だから、まだ、もうちょっといたいなって思えるんですね。
 そういうあたたかいなかで、今の日本とか、日本人であることを、見なおしていかなきゃいけないなって先生のを拝見してそう思いました。私も、マレーシアのひとたちのように、あったかくて、人をおもいやれるこころをもって、それでいて、日本人のいいところを、ずーっともっていたいとおもいました。マレーシアにきてよかったって、思いました。 先生、ありがとうございます。(大原)

●…異国の夜の道をジャランジャラン

■最近、「ジャランジャラン」という言葉を知って、その言葉がタイトルに入っているコラムに興味を持ち読んでみたら面白い。で、他のものも読んでいったら、感動するものあり、考えさせられるものありで、一気に全部読んでしまいました。
 多民族国家の民族間の紛争というのは、ここ数年クローズアップされていますけれど、マレーシアは絶妙なバランスで、平和な国として成り立っているのだなという印象をこれらの記事から受けました。それぞれの人達が、おおらかさを持って、このまま「平和なマレーシア」であってほしいと望みます。
 一時期、インターネットを通して、マレーシアの中国系の人々と知り合う機会が多かったのですが、どうしてこうもマレーシアの人が多いのかなと思っていました。彼らが日本に憧れを持っているのは感じましたが、記事を読んで、改めて納得しました。
 『マレーシアの若者が見た「日本の国際化」』は、今まで私が日本で感じていたことをよく、言い表しています。”Look East Policy”という言葉を初めて知りましが、国際化と言われている日本で、マレーシアから見習うべき所が多いのではと思いました。(葛綿)

 考えてみますと先生は今羨ましいところに住んでいるとも言えるのではないでしょうか。日本では もうご存じと思いますが親が自分の産んだ子供に多額の生命保険をかけて海に押し込んで殺すと言う事件が・・・。動物でも出来ない残虐なこと、 残念です。 悔しいです。 本当に世紀末です。日本人が本能まで喪失したのかと思うとゾッとします。
 経済再建はもう良い心の再建、人格の再建をこんな事を言い出すと今から70年前を亦思い出してイヤ-な気分になります。どうしたら良いんでしょうか。75歳の老男性より。

●マレーシア・ボレ!90年代のキーワード

■昨年秋はじめて新空港に降りたとき、このコラムを思い出しました。個人的にはスバンのほうが味わいがあったな~と思うのですが、あの巨大な、まだ一部未完成(でしたよね?)の新空港は、まさにマレーシア・ボレでした。いい言葉です。(下村)

●悲壮な覚悟で1年を乗り切ったマハティール首相

■自分のとった政策がよいのかどうか,国民に明確に説明し, 国民を信頼しようとする政治家としての誠実さを,うまく捉えて書いて戴いてよかったと思います。(小林)
…(つづく)