茶髪ショックがまださめやらねまま、日本からマレーシアに戻って、改めて道行く人々の姿を眺めてみると、目に付くのは人種的特徴の個性豊かさ、カラフルで多様な服装、そしてマレー系女性のトゥドゥン(ベール、またはスカーフ)である。
 初めての人は異和感を覚えるかもしれないが、イスラーム教徒の女性の多くは、性の誘惑を避けるため(?)、「魅惑的な」髪をベールで覆っている。

 このイスラームの「ベール」は、国によって、その呼び名も色・形も違うようだ。マレーシアでは「トゥドゥン」と呼んでいるが、尼僧や修道女が被るような長いものもあれば、頭だけを覆うスカーフ風のものもある。色も黒や白の他、カラフルなもの、花柄、唐草模様などをあしらったものもある。その他、礼拝の時に頭から全身を覆う真っ白なガウン風のものがあるが、これは「トゥルコン」と呼ばれ、ムスレム女性にとって肌身離せぬものである。

 黒や白の腰まである長いトゥドゥンはいかにも宗教的、「男よけ」のような感じさえするが、華やかなバジュ・クロン(マレーの服)などとコーディネートしたお洒落なトゥドゥンは一種のファッションとも写る。

 トゥドゥンはイスラーム女性のアイデンティティの証し。但し、マレーシアでは皆が被っているわけではない。被る人と被らない人がいる。被っていれば「宗教心が篤い」と見られるが、被らないからと言って必ずしも「宗教心が薄い」とは言えない。この辺りは微妙且つセンシティブなので、ムスリムの友人に根掘り葉掘り聞くのも気が引け、深く追求したことがない。

 早い子は3、4歳で頭を覆い始める。「形」や「作法」からイスラームに入っていくのだろう。イスラームは躾の基本。逆に躾はイスラームの基本とも言える。

 私の周りでは、新妻になったり、結婚適齢期が近づいてトゥドゥンを被るようになった女性が何人かいた。また、退職間近かになって、白髪混じりの頭を、戦後日本で流行ったドラマ「君の名は」の「まち子巻き」のように、そっと覆うようになった教授もいた。

 人、それぞれであるが、目に見える「形」の変化は「心境」の変化でもあろう。

 ある時、同僚のマセラさんとおしゃべりをしていたら、こんな話が出た。

 「伴さんね、私のヘアスタイルを見て『もうそろそろ被った方がいいんじゃない?』、と忠告してくれる人もいるんだけど、私、まわりに言われたから...というのはイヤなの。イスラームはね、自分と神様との関係。自分が神様と向かい合って、『被らなきゃ』と思うようになったら、被ります」

 日本の大学を出て、日系企業に勤めた経験もあるマセラさんは30歳過ぎで、一児の母親。ウエーブのある豊かな髪をショートカットにしている。マレーの民族衣装と洋服(主にパンツ・スタイル)を半々で着こなす、なかなかのオシャレさんだ。

 このマセラさんの話を聞いて、「被らない」ことにもひとつのプレッシャーがあるのだなあ、そしてイスラーム教徒というのは、(失礼な言い方だが)意外に「個」が確立しているのかもしれない、日本人よりずっと西洋に近いのかもしれない、と感心したものだった。

 著名人に目を向けると、マハティール首相夫人のシティ・ハスマ女史はトゥドゥンを被っていない。1998年に解任されたアンワル前副首相夫人のワン・アジザ女史(国民正義党党首)は夫君が華やかなりし頃、いつもパステル・カラーのトゥドゥンを被っていた。そして、1999年4月26日号の『ニューズウィーク』にはそのクリーム色のトゥドゥン姿が表紙を飾り、本文では「改革の天使、立ち上がる」と謳われたりもした。

 マハティール首相の後継者と目されるアブドゥラ副首相はイスラーム指導者の家系に生まれ、本人もマラヤ大学でイスラームを専攻しているが、日本人の血を引くエンドン夫人はその華やかな長い髪を覆ってはいない。

 ある時、私はハリラヤのオープンハウスで、政府高官の夫人たちの会話を漏れ聞いたことがあった。「アブドゥラとエンドンは、あれで(トゥドゥンを被っていないことをさす)ちょうど(イメージの)バランスがとれていていいんじゃない?」 この多民族国家では、指導者たちのイスラーム色が強すぎても、弱すぎてもいけないのかもしれない。

 3月にUMNO婦人部長の地位を争っているラフィダ国際貿易産業相が反対派からトゥドゥンを着用していないのはイスラームに反すると批判されると、「被るか被らないかは、個人の問題でしょ。大切なことは職に対する務めであり、政治問題とトゥドゥンを一緒にしないでほしい」とやり返したということである。

 頭を覆うのは女性ばかりではない。シーク教徒の男性は幼い頃からターバンを巻いているし、イスラームの男性もモスクへ行く時や公式行事の時には白いコピア帽や黒、紺色などのソンコを着用する。

 「心」を「形」で表わすとも言えるし、「形」を作って「心」を整えることもあるのだろう。また、「形」が「心」とストレートに関連がない場合もある。マレーシアでは「被るか、被らないか」は、終わりのないテーマである。

 参考:マレーシアとはあまりにも違うイランの「ベール事情」については田中宇氏の次のコラムを御参照下さい。
 イスラム共和国の表と裏(2)ひそやかな自由化http://tanakanews.com/990927iran.htm