* パパイヤ-フツーのくだもの
 マレーシアで最も一般的なくだものは、バナナを除けば、パパイヤかもしれない。マレー語で「betik」という。安くて、1年中出回っている。日本で見かけるのよりずっと大きく、果肉も柿のような赤い色をしている。

 大味であまり特徴はないが、消化酵素を含み、ビタミンAやCが多く、体にいいという。二つに割って、中に何十と詰まっている黒い小豆のような種を除いてから、適当な大きさに切って食べる。

 町なかのフルーツ・スタンドなどでは、アイス・キャンディーのように縦に細長く切って、1本ずつビニール袋に入れて売っている。歩きながら、袋から少しずつ押し出してかじるのである。

 ビュッフェのデザート・コーナーには必ずと言っていいほどパパイヤが、西瓜やメロンのスライスとともに並んでいる。これらのフルーツは、バナナの葉の上で、色取はきれいであるが、概して大味で取りたてて美味しいと思ったことはあまりない。

 濃厚なマレーシア料理の後、口の中を中和するような感じだ。そう言えば、マレー語でデザートのことを「pencuci mulut」というのは面白い。「口汚し」ならぬ「口洗い」というわけだ。

 マレーシア人の食生活を見ていると、特にマレー系とインド系は、日本人に比べて野菜の摂取が少ないように思う。あれで、ビタミンは足りているのだろうか、と心配になってしまう。くだものでビタミンを補給しているのかもしれない。

 品種改良を重ねた日本のくだものが、不自然なほど甘くて美しいお菓子なら、野生的なマレーシアのくだものはトマトや胡瓜のように野菜感覚で食べる物なのかもしれない。

 *リマウまたは柑、桔-「金」への連想

 柑橘類を「limau」という。「jus limau」と言えばライム・ジュースだし、ナシゴレン(焼き飯)やミーゴレン(焼きそば)にはよく「かぼす」に似たリマウが添えてある。「limau manis」はみかん、「limau besar」はザボン、「limau mandarin」はポン柑に似た、中国正月に出回るみかんのことである。中国や台湾からの輸入品である。因みに同じ輸入品でもオレンジはリマウではなく、マレーシアでも「oren」である。

 今年の中国正月はこの中国みかんをたくさんもらった。2つとか6つとか、偶数の数で何人からも手渡しでもらった。決まって、「恭喜発財!」の言葉とともに。

 みかんはその色から「金」を連想させ、また「柑」や「桔」は発音や書き方が「金」や「吉」に似ているので、めでたいくだものとして、正月には欠かせないのである。1998年は経済危機で60万箱に落ちた輸入量が、1999年には100箱に増えていた。今年はその数が更に伸びたに違いない。

 さて、マレーシアの中国正月の様子を在日中国人の友人に知らせたら、大晦日にこんなメールが届いた。

 「マレーシアの華人の春節の祝い方も大陸と全く同じですね。私も子どもの時は、春節などの目出度い日はみかんを食べていました。東北の寒いところで、流通が盛んでなかった時は、みかんが貴重品でした。中秋月の日、お月様に供えた後のみかんを母から一個しか貰えなかったことを今も鮮明に覚えています」

 この便りを読んだ時、突然、昔読んだ芥川龍之介の短編、『蜜柑』の鮮やかな1シーンが目の前に浮かんだ。 

 (汽車がトンネルを抜けたかと思うと、踏切の柵の向こうで、3人の子供たちが、必死で声をあげ、手を振っていた)

 「するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢い良く左右に振ったと思うと、たちまち心を躍らすばかり暖かな日の色に染まっている蜜柑がおよそ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降ってきた。私は思わず息をのんだ。そうして刹那に一切を了解した。小娘は、おそらくはこれからの奉公先へ赴こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切まで見送りにきた弟たちの労に報いたのである」

 貧しかった時代、どこの国でも蜜柑は黄金のように輝いていたのだ。そんな人類共通の「貧しくとも美しい」体験を新しい世代に伝えていくこともまた「文化」と言えるのかもしれない。(了)