ハリラヤ・オープンハウスは「イスラーム」の文化なのか、「マレーシア特有」の文化なのかはよく知らないが、マレーシア人が誇りとしている文化で、断食明け後延々一ヵ月ぐらい続く。今日は庶民のオープンハウスに関するコラムを再掲する。


再掲

ハッサン家のオープンハウス

2000年1月30日

    1月23日の日曜日、朝早くハッサンさんから電話があった。「娘のヌリアザがオープンハウスをするから、来ませんか。家族もみんな、伴さんに会いたがっていますよ。久しぶりでしょう。僕が12時ごろ迎えに行きますから、是非来て下さい」

 急な話だったが、「そうね・・・。そう言えば、あなたの4番目と5番目のお孫さんの顔はまだ見ていないから、伺わなくちゃね・・・」と頭の中でその日の予定を組み替えながら答えた。

 今年のハリラヤ・プアサ(断食明け)は1月8日だったが、まだハリラヤ気分が続いていて、週末にもなると、あちこちの家でオープンハウスが開かれている。人数が多くなる場合はクラブ・ハウスや公共施設のホールなどで行われることもある。

 オープンハウスはマレーシア社会が大切にしている文化、慣習のひとつであり、ハリラヤに限らず、チャイニーズ・ニューイヤーやヒンズー教のディーパバリの時も、その祭りの主役たちが親戚や日頃世話になっている人たちを民族の垣根を越えて自宅に招くのだ。

 マハティール首相のオープンハウスについては「『平和なマレーシア』という愛唱歌を持つ国家」の中で既に書いたが、今年首相公邸には、昨年の4万人を更に上回る5万人の訪問者があったという。

 首相公邸は昨年(1999年)6月に、いち早く新行政都市プトラ・ジャヤ(クアラルンプールと新国際空港の間に位置する人工都市)に移転したばかりなので、その「宮殿のような」と野党から批判をこめて形容された新首相公邸を一目見たいという物見遊山の人たちも多かったのかもしれない。

 さて、ハッサンさんとは1991年末に私が国際交流基金の駐在員として赴任して以来のつきあいである。はじめの頃は私のプライベートの運転手だった。インドネシアなどと違い、ここでは自分で運転する外国人が多いが、私はその頃まだ運転が出来なかったので、運転手を雇うしかなかった。

 確か基本給は1000リンギット位(当時5万円、現在3万円弱)払っていたと思う。今と違って在勤手当もいただく高給取りだったから、それは可能なことだった。当時ハッサンさんは奥さんと5人の子供の7人家族だった。約束をした日(契約などなく「じゃ、明日からよろしくね!」が儀式だった)、私はハッサンさんとその家族を間接的に養うのだと思い、淡い責任感のような、かって経験したことのない不思議な感慨を覚えたことを今でも思い出す。

 ハッサンさんとは馬が合った。軍隊に勤めていて、40歳で退職し、数年間リムジンやタクシーの運転手をしていた彼は、ディシプリンがあり、英語もよく話せた。細身の小さい体だったが、ガッツがあった。いつも間違いなく目的地に私を送り届けてくれたばかりでなく、待ち時間には細々とした雑事もこなしてくれた。時には私のマレー語の先生にもなってくれた。

 異国での一人生活、事業拡張期にあった国際交流基金支部の激しい仕事、時にはひどく疲れたり、落ち込んだり、悩んだりすることもあったが、そんな時、彼は運転手席からじっと私の顔色をうかがい、「Jangan bimbang (心配しないで)」、「sabarlah!(我慢、我慢!)」とか日本語で「出来ないことはない!(頑張れという意味)」と励ましてくれるのだった。

 彼は日本語もあっという間に上達して、いつの間にか私のマレー語を追い抜いていた。ことわざや気の利いたことを言うのが好きで、まるで『ドンキホーテ』の中のサンチョのように楽しい人だった。

 やがて、国際交流基金が日本語センターを開設すると、ハッサンさんは正規の職員として採用されたが、時間外は引き続き私のプライベートの仕事も手伝ってくれた。

 ハッサン家とはこの8年間、家族のようにつきあってきた。オープンハウス、子供たちの結婚式など、何度彼の家にお邪魔したことだろう。家族と一緒にクランタンやケダ州方面に旅行をしたこともある。

 そんな昔のことを思い出しながら、ハッサンさんとおしゃべりをしていると、2、30分でヌリアザさんの家に着いた。650リンギットで借りているというそのアパートは日本に比べると広々としていて、寝室が3つもあった。生活に必要なものはすべて揃っていて、豊かさを感じた。共稼ぎなので、二人の給与を合せると3000リンギット以上になるとのことだった。

 食べ物はお袋さんが時間をかけて煮込んだラクサ(冷たいお米の麺に熱い魚のスープをかけて食べる)、レマン(糯米とココナッツ・ミルクを竹の筒に流し込んで炊いたもの)、ミーゴレン(ヤキソバ)、色とりどりのハリラヤ・クッキーなど。飲み物は、赤い色のついたジュースとライチ・シロップ。

 初めて会った頃、まだ学生だったヌリアザさんは1996年に結婚し、既に2児の母親となり、近く第3児出産の予定である。長男のタンジュディン君も1994年に結婚したが、もう3人の子供がいる。即ち、ハッサン家はこの8年で7人が14人にと、人口が2倍になったのである!

 南国では家族も青々と茂る大樹のようだ。家族という大木が枝を伸ばし、葉をつけて、どんどん茂っていく。人間も自然と同じで、その生命の成長、継続を一時も休んではならないとでもいうかの如く・・・。そして人々は家族の繁栄、子供の成長を見て、歳月の流れを実感する。その風景は高齢化社会や少子化問題が不安を掻き立てている日本社会とは違って、逞しさと、未来への希望や明るさを放っているように思える。

 私が一番乗りだったが、やがて20人、30人、と来客が増えてきたので、私は十何人もいる子供たちにハリラヤ・デュエッ(お年玉)を配って、いとま乞いをした。

 心の中で「ハッサン家のみなさん、Selamat berbahagia!(ご一家の繁栄、幸せを祈ります)」とつぶやきながら。