被爆した東南アジアの留学生を想う旅(追記②)ペンギラン・ユソフ

南方特別留学生の中には首相になった方もいます!!
今日は広島でラザク先生と一緒に授業中に被爆し、九死に一生を得、後にブルネイの首相になったペンギラン・ユソフ氏のお話をしたい。
マレーシアからブルネイに出張した折に同氏の事務所を訪ねたことがある。当時はインターネットもなく十分な情報を得られないまま出かけ、面会時間も短く、30年以上も前のことでよく覚えていないが、1枚の光栄な写真が残っている。
今回ネットでペンギラン・ユソフ氏について調べたことをお伝えしたいと思う。
ヤン・アマッ・ムリア・ペンギラン・セティア・ネガラ・ペンギラン・ハジ・モハメド・ユスフ・ビン・ペンギラン・ハジ・アブドル・ラヒムは1921年英領北ボルネオに生まれた。ペンギランは王族の一員であることを示す称号である。(マレーの名前は長いですね!)
マラヤのスルタン・イドリス師範学校(ラザク先生も日本留学後に同校で学んだ)を修了し、1944年に南方特別留学生に選ばれ来日(他の留学生より年長だった)。国際学友会を経て、1945年に広島文理科大学に進学したが、8月6日に被爆した。
帰国後は教員の傍ら政治活動に関わり、立法協議会会員に任命され、その後憲法起草委員会の事務局長を務めた。ユリ・ハリムのペンネームで国歌も作詞した。ペンギラン・ユソフは1967年に自治政府の初代首相となり、1972年まで務めた。ブルネイの有名な政策「所得税免除、医療費・教育費無料」の骨格を作ったのもペンギラン・ユソフだと言われている。
ブルネイの独立への道は長く、完全に独立を獲得したのは1984年のことである(現在首相は国王が兼任している)。
ペンギラ・ユソフは国務大臣だった1964年に天然ガスの対日輸出に踏み切り、日本企業との協力に道を開いた。正に母国の独立と経済発展に貢献したブルネイの歴史に残る政治指導者だった。
また、日本との国交回復やブルネイ日本友好協会の設立にも尽力。2001~02年は駐日ブルネイ大使を務め、1985年には勲一等旭日大綬章を受賞している。広島大学からは2013年にラザク先生らと共に名誉博士号を授与されている。南方特別留学生の最後の存命者だったが、2016年、94歳で逝去。
ペンギラン・ユソフは自らの被爆体験をブルネイ国内に伝え、平和活動の推進に大きく貢献した。長女ペンギラン・ダティン・ユラ・ユソフさんも父親の広島体験を継承していきたいと語っている。なお、ユラ・ユソフさんの夫ダト―・パドゥカ・モハマド・アダナン・ブンター氏は駐日大使を務めた(2005~08年)。
リンク:アジアの輪郭ー特集特集Ⅰ 物語で読むアジア史 「広島で被爆したブルネイ初代首相」
ブルネイ国歌
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被爆者の話は以上で終えますが、追加しておきたいことがあります。
被爆者ではありませんが、マレーシアからの南方特別留学生で、戦後マレーシアの独立と国造りに身を捧げ、更には近隣諸国との友好と共存共栄を願ってアセアン結成に尽力したラジャー・ダト・ノンチック氏のことです。
マレーシアに赴任した時はまだご存命で、機会があればお会いしたと思っていた方ですが、残念ながら叶わず、同氏の 半生記『日本人よありがとう』(タイトルに驚かれる方もいるかもしれませんね。)で同氏の波乱万丈の半生を知ることになりました。この夏、同著を改めて読み返し、その半生のスケールの大きさに驚き、記憶に残しておきたいと思いました。
ラジャー・ダト・ノンチック・ビン・ラジャー・イシャックは1926年セランゴール州のクランで、スルタン家の一族に生まれた。遠祖は西スマトラのミナンカバウの王家である。
「マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげた」という熱血漢のラジャー・ノンチックは南方特別留学生第1期生として来日、国際学友会を経て、宮崎高等農林学校(現宮崎大学)、陸軍士官学校、東京帝国大学で学んだ。
帰国後はチャンギ―監獄に投獄、スマトラ独立運動に参加、内戦中の中国に留学、マラヤの共産ゲリラ掃討作戦参加など波乱に富んだ経験を積んだ。独立後は政府関係の仕事に就き、1959年に政府派遣でかつての宗主国イギリスの北部にあるダラム大学に留学する。
1964年マレーシア結成後第1回総選挙で下院議員に当選し、その後上院議員となり、1982年に政界を引退するまで政治家として、また財界人として活躍した。1994年逝去(享年68歳)。1984年に勲二等瑞宝章を受賞している。
世界を知り尽くしたラジャー・ノンチック氏は半生記の中で「序に変えて」と題して詩を残している。
かつて日本人は清らかで美しかった
かつて日本人は親切でこころ豊かだった
アジアの国の誰にでも自分のことのように
一生懸命つくしてくれた
(中略)
今の日本人が心配だ
本当にどうなっちまったんだろう
日本人はそんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは
今はいつも歯がゆくてくやしい思いがする
(中略)
こんなひとたちと
本当に仲よくしてゆけるだろうか
どうして
どうして日本人は
こんなになってしまったんだ
参考;『日本人よ、ありがとうーマレーシアはこうして独立した」(土生良樹、日本教育新聞社、1989)
*新装版は復刊委員会編集、望楠書房、2021
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もう一人、忘れてならないのはハムダン・タヒール氏です。1921年ペナン生まれ、南方特別留学生ではないのですが、昭南興亜訓練所(1期生)で学び、長年教育界で活躍した後、ペナン州の元首(任期:1989-2001)になられた方です。2005年に84歳で逝去されました。
ハムダン氏は優しいお人柄で、日本愛の強い方でした。 「日本時代の経験は私の教育理念や人生観に最も強い影響を与えました」と述べておられます。
詳しくは2000年に書いたコラムをご覧ください。⇒
リンク:🌙 親日家①ハムダン元ペナン州元首

ハムダン氏の伝記/写真集

写真集に掲載されている昭南興亜訓練所修了証書
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7回に亘ったシリーズ「被爆した南方特別留学生を想う旅」は思いがけず、長い「こころの旅」となりました。今は亡き方々への感謝をこめた供養の作業でもあったように思います。
東南アジアを俯瞰し、日本のこの百年の歴史を考える機会を作って下さった藤嵜政子さんに心からお礼を申し上げます。また長い間お付き合いくださった読者の方々に感謝申し上げます。




