被爆した東南アジアの留学生を想う旅(追記①)アリフィン・ベイ
私がクアラルンプール日本文化センターを離任する時、ベイ先生が自宅で送別会を開いてくださった(前左がベイ先生)
シリーズ「被爆した東南アジアの留学生を想う旅」を書いていた時、情報を確認するために何度かGoogleを検索して驚いたことがある。例えば「アブドゥル・ラザク」を検索してみると、第2代マレーシア首相「トゥン・アブドゥル・ラザク・ビン・ハジ・ダト・フセイン」の後に、何と3番目に私のコラム(2000年に書いた「マレーシアの親日家(3)アブドゥル・ラザク先生」)が出てくるではないか!! そして、後日また検索してみると、2ページ目に数日前に公開したばかりのコラム(「被爆した東南アジアの留学生を想う旅③-アブドゥル・ラザク」)がもう載っている!
私は自分が書いたコラムがこのような形で公開されていることに驚きと喜びを感じると共に、マレーシアのことを発信していることの責任を感じた。また引退していてもネット通じて伝えたいことを広めていくことができるのではないか!と改めてその可能性に気付かされた。
さて、広島で被爆した南方特別留学生8人の内、マレーシアの3人については既に紹介したが、考えてみると、実は私はあと2人の被爆者、スマトラ(インドネシア)のアリフィン・べイと北ボルネオ(ブルネイ)のペンギラン・ユソフにも会っている。この2人のことも書き留めておかなければと思い、この100年の間の話を続けます。
アリフィン・ベイ氏は1925年当時オランダの植民地だったスマトラに生まれた。1944年に来日、国際学友会を経て、広島文理科大学で学ぶ。被爆した8人の東南アジアの留学生の中の1人である。
1954ー57年ニューヨーク国連放送局、1961年ジョージタウン大学大学院国際政治学科博士課程修了、1961-67年ジャカルタの英字新聞インドネシアン・ヘラルド編集長、1967年在日インドネシア大使館参事官、1972年より上智大学、国際キリスト教大学、筑波大学の客員講師・教授を経て、1987~95年神田外語大学教授(名誉教授)、マラヤ大学客員教授。1991年に勲三等瑞宝章受章。
インドネシア、日本、米国、マレーシアなど世界を股にかけて様々な仕事を経験され、最終的には「学者」であられたべイ先生。豊かな語学力を駆使して、著述、講義,講演當を通じて、日本とインドネシアの架け橋として活躍されると共に、日本の東南アジア、イスラーム理解に貢献された。2010年9月にインドネシア・ジャカルタ近郊で85歳の波乱万丈な生涯を終えられた。
私は1994年より1998年までクアラルンプールでベイ先生とお嬢さんのムルヤティさん(母親は日本人)とお付き合いがあり、何度もお宅に伺ったことがある。
世界のあちこちに滞在されたベイ先生が、1998年暮れ、73歳でインドネシアへと還って行かれた時、スパン空港でお見送りした時のことが思い出される。最後は日本でも、マレーシアでもなく、祖国を安住の地として選ばれたことが深く印象に残っている。・・・お嬢さんのムルヤティさんは今どうしておられるだろうか。
リンク:🌙 アリフィン・ベイ先生のメッカ巡礼
先生は知日家だったが、手放しの親日家ではなかった。多くのご著書の中に日本に対する厳しい忠告や助言が含まれている。先生の主なご著書(日本語のみ)を列挙すると・・・
『インドネシアのこころ』(めこん、1975)
『魂を失ったニッポン』(未央社、1976)
『近代化とイスラーム』(めこん、1981)
『アジアが日本に忠告する』(秀英書房、1982)
『アジア太平洋の時代』(中央公論新社、1987)
もう一度読んでみなければと思うものばかりである。今の私ならもっと先生のお考えやお気持ちを理解することができると思う。
先生、ありがとうございました。どうかアッラーのご加護がありますように!
被爆した元南方特別留学生を囲んで(前列左ベイ先生、右ラザク先生)
リンク: Arifin Bey (Wikipedia) https://en.wikipedia.org/wiki/Arifin_Bey




