被爆した東南アジアの留学生を想う旅(1)

元安川のほとりにて
9月7日の夕刻、私は広島で合流した東京の友人、藤嵜政子さんと元安川のほとりのベンチで美しい夕焼けを眺めていた。元安川は原爆で血に染まった川である。しかし、私たちはその恐ろしく、悲惨な光景ではなく、原爆が落とされる前の平和な川の光景を思い浮かべていた。戦時中東南アジアの若き青年たちが、住んでいた興南寮前の土手に夕涼みに出てきて、楽しそうに語り合い、笑い、歌を歌う姿をー。近所の日本人の子供たちも混じっていたかもしれない。
「ラザク先生もオマールさんたちも80年以上前にこの同じ風景を見ていたのねぇ』
「きっとサガラさんのヴァイオリンに合わせてブンガワンソロやラササヤンを歌ったのでしょうね」
私はスマホのYouTube を開き、うら覚えのマレー語のブンガワンソロを口ずさんだ。懐かしさがこみ上げ、空に向かって大声で「ラザクせんせーい!」と叫ぶと、藤嵜さんが「きっと先生に届いたわよ!」と私に優しく寄り添ってくれた。
「オマールさんは『夕焼け小焼け』が好きだったんですって ...」
「オマールさんの歌(母を遠く離れてあれば南にながるる星のかなしかりけり)もこの風景の中で生まれたのねぇ。 ...彼らは優秀で純粋な青年たちだったのでしょうね」
目の前の川は水が滔々と流れ、夕焼けのキャンバスは魔法のように刻々と色を変えて行った。私たちはこのような美しい夕暮れの景色に出会えたことを奇跡のようにも感じて、夜の帳が下りるまで、川のほとりで戦時中の若きアジアの青年たちに思いを馳せた。
被爆した東南アジアの留学生ー国を超えた友情ー
私たちが今回広島を訪問したのは広島平和記念資料館で開催されていた企画展「被爆した東南アジアの留学生―国を超えた友情」を見学するためだった。6月末に藤嵜さんよりこの展示会の知らせを受け、その後互いに関連の本やネットの情報を交換し合って、いろいろと勉強してきた。そして、夏の終わり、企画展が終わる間際に願いが叶って広島を訪れたのだった。
2泊3日の滞在だったが、平和記念公園には2回足を運び、元安川ほとりの興南寮跡碑や被爆したニック・ユソフさんの墓(五日市光禅寺)にもお参りができ、被爆した東南アジア(特にマライ)の留学生を訪ねる感慨深い旅となった。

左から
藤嵜政子3Aネットワーク社長、
下村優広島平和記念資料館学芸員、
白石勝己アジア学生文化協会理事長
南方特別留学生
太平洋戦争末期に日本の政策に協力する東南アジアの指導者を育成すべく「南方特別留学生」事業が始まった。1943年と1944年の2回、合計205名の青年たちが日本の国の予算で留学して来ている。わずか1年足らず東京の国際学友会で日本語を学んだ後、日本各地の高等教育機関に配属された。広島で学んだ南方特別留学生は24人、その内8人が被爆している。
マレーシア(当時はマライ)からの南方特別留学生は12人で、その内3名が被爆(オマール、ニック・ユソフ、ラザク)、ラザクのみが生き延び、88歳の天寿を全うした。
私はマレーシア滞在中、ラザク先生と日本語教育関係で親しくお付き合いいただき、何度も直接被爆経験の話を聞いている。ラザク先生はマレーシアの思い出とともに人生で忘れられない方なのである。
長くなるが、マライからの3人の被爆者の物語を綴ってみたい。(つづく)

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