漢字・ひらがな・カタカナ融合の美
先学期最後の日本語レベル5の授業でのことである。
「ガンさんは中国語教育を受けていないから、漢字はゼロからで難しかったでしょう。でも、よくここまで頑張りましたね。大変だったかもしれないけれど、漢字と仲良しになって、日本語と一緒に中国語も勉強できたと思いませんか」
「はい、先生。私もそう思います。初めはもちろん大変でした。でも、今、漢字が好きです。日本語能力試験(彼女は4級を受験)の時、ひらがなが多かったので、読む時、時間がかかりました。漢字がもっとあった方がいいです」
「へぇー、すごいですね。そんなことがわかるようになりましたか。かなと漢字、両方とも大切ですよね」
「先生、私は文の中に40%ぐらい漢字があるといいと思います」
40%が妥当かどうかはともかく、漢字とかなの「バランス」に着目したこの発言を聞いて、私は「うーむ!」と唸ってしまった。この子は日本語の特質を見事につかんだのではないか。僅か250時間足らずの学習で!私はその時、この学生を誇りを持って社会に送り出すことが出来ると、心から嬉しく思った。
さて、私が勤務しているマレーシア国民大学では日本語を一般外国語としてレベル1からレベル5まで開講している。1学期1レベルで、週4時間 X 14週、即ち1レベル約50時間というわけだ。レベル1でひらがな、レベル2でカタカナ、そしてレベル3から漢字を教える。
ひらがなは大体2、3週間で読み書きを教えるのだが、私はいつも和紙に書かれた毛筆の手本を見せて、その筆と墨の持つ柔らかい感触を伝えるようにしている。「音」として、「文字(記号)」として、また「美術」として教えるのだ。そして筆順、画数、全体のバランスに注目させる。昔、日本語は縦書きで巻き紙を使用したことなど文化的な側面にも言及する。
ひらがなの由来を話すと、中国系の学生たちは漢字が基になっていることに興味を示すが、漢字を知らぬマレー系やインド系には何の感慨もないようだ。「ひらがな」ですら、大変に異質で難しいもののようで、時には思いも及ばぬ筆順で書いたりするので、舌を巻くことがある。しかし、発音となると、彼らは中国系に比べ癖がなく、習得が早い。
テキストは会話の文型を中心とした「漢字かな」書きのもの(ルビつき)を使うが、ルビが小さいので、ここでも非漢字文化圏の学生はハンディとプレッシャーがある。そんなこともあり、音声から入っていく方法も工夫する。
テキストを読む時はわざとオーバーに感情移入をし、興味を持たせるように努めるのだが、学生たちが溜め息をついたり、「くすくす」と感嘆の笑いを漏らしたりすれば成功である。
レベル2になると、非漢字文化圏の学生はぐっと減ってしまう。「先生、ごめんなさい。日本語は面白いですが、大変難しいですから…」と言ってやめていく者もいる。
レベル2はカタカナから入るのだが、書き方は問題なくとも聞き取りがなかなか難しい。ミルクが「milk」、タクシーが「taxi」だと分かるまで、かなりの練習が必要だ。私たちがカタカナから英語をすぐ連想するようなわけにはいかない。マラッカは「ムラカ」、タワーは「ターワル」となったりする。
カタカナは今日では主に外来語を表わす時に使うが、「西洋文明の受容」という観点から、他のアジアの言語と比べてみるのも面白い。マレー語は「音」で、中国語は「意味」で、そして日本語はその双方の方法で外来の言葉や概念を取り入れてきた。
「ニュー・ミレニアム」と「新千年紀」がよい例である。最近ではわざわざ外来語にしなくともよい言葉までカタカナ書きにする。例えば「ゲットする」などという奇妙な用法さえある。そんな話をあれこれしていると、授業は脱線したまま、終わってしまう。
レベル3で初めて正式に漢字を教える。この頃には学生は中国系ばかりになっていることが多い。漢字というものに慣れ親しんでいるので、あとは日本語の読み方と、中国語と日本語で意味が異なるケースに留意していけばよい。読み方は「音読み」の場合、マンダリンや方言と比べてみたり、「訓読み」の場合は送りがなに注意させたりする。
いつも2、3人、中国系でも漢字を知らない学生が混じっているが、彼らには特別の配慮をしている。補講で漢字の象形文字としての美しさを強調し、漢字はまず見て意味が分かることが大切で、次に読めるようになること、そして、すべての漢字が書けなくてもよいのだと気分を楽にさせ、漢字のために途中で挫折しないように励ましていく。
中国系ばかりの場合、漢字が入ってくると、日本語学習がスピードアップする。「1」を教えれば、「10」を学んでくれるのだ。学生たちの興味・関心が倍増するのは、「漢字という文明」を持つ、民族の誇りが呼び覚まされるからだろうか。
漢字は漢字文化圏とのパイプであり、カタカナは西洋文明とのパイプである。そして、その中心には和語(やまとことば)、ひらがなという日本独自の幹がある。外国人に教えることを通して、私は日本語の文字文化としてのユニークさ、豊かさに改めて気づかされるのだった。
今、日本語は日本の社会と同じように大きく変化しつつある。「ワープロやインターネットの時代、やっかいな漢字は衰退していけばよい」という人もいれば、「漢文学習の価値と復権を提唱し」、「東北アジアの心への回帰を予感する」人もいる。更には、「英語を第2の公用語とすることを検討する」意見(21世紀日本の構想)まで飛び出している。
21世紀、日本語はどうなっていくのだろうか。単に時代の流れに身を任せるのではなく、いみじくも私の学生が気づかせてくれように「漢字、ひらがな、カタカナはどのような割合で使うのが、最も日本人としてふさわしく、美しいか」という命題をこれからも自分なりに考えていきたいと思っている。
参考:1.加藤秀俊(1999)「漢字とかな」『日本語教育通信』第35号
国際交流基金日本語国際センター
2.加地伸行(2000)「漢文は死んだか」『中央公論』5月号