暑さ、人混み、土埃、体臭とジャスミンの花の香り、お香とお供えの牛乳のすえた匂い。その中をカバディと呼ばれる極彩色の飾りを施した御輿を単独で担いだ男たちが、脂汗で黒い体をぎらつかせながら太鼓やかけ声に合わせて恍惚として練り歩く。中には頬を鉄棒で串刺しにしたり、背中にホックのような針を刺してオレンジやりんごをいくつもぶらさげている者もいる。
 異教徒には自虐的としか思えないほどに肉体を痛めつけ、徳、勇気、若さ、美を象徴するムルガの神に祈りを捧げるのだ。

 6年前、マレーシアのヒンズー教の第二の祭りであるタイプーサム(タイ月の祭り)を、クアラルンプール近郊のバツー・ケーブス(切り立った山の上にある鍾乳洞窟にはヒンズー教の寺院がある)へ見に行ったときの戦慄は忘れられない。

 なにしろ本場のインドでも禁止されているという「荒行」なのである。私は本物のカルチャー・ショックを受けた。異文化理解などときれいごとではすまされず、生理的に拒絶反応を起こしてしまい、暑さも手伝って失神寸前になってしまった。

 1999年1月31日、タイ月の満月の日、再びタイプーサムに行った。ここはインドのどこだろうかと見まがうほどインド人が多かった。インドネシアやシンガポールなど近隣諸国からもヒンズー教徒が集まり、翌日の新聞によれば、バツー・ケーブスだけでも100万人以上の人出だったそうだ。

 私たち日本人は興味本位でどんな宗教の行事にも首を突っ込むが、宗教は本来「節操」を大切にする。イスラーム教徒がヒンズー教の祭りを「見学する」ことはあまり考えられない。従って警察を除いてマレー人の姿はほとんど見かけないのだ。

 中国系は宗教に対してそれほど潔癖性でない。私の心を引いたのは病人やけが人の応急処置に当たっていた新月社(十字マークを嫌うイスラーム国家では三日月を使用)のボランティアの多くが若い中国系の青年たちで占められていることだった。

 こんな危険を伴う大規模なヒンズー教の祭りをイスラームを国教とする国で許すマレーシアという国の寛容さのスケールの大きさに感服するとともに、祖先の地を離れてもヒンズー教という精神文化を堅持するインド人のパワーとエネルギーに圧倒された。
 
 マレーシアの中の「インド」

 総人口2100万人のうち8%強を占めるインド人とのつき合いはマレー人や華人に比べ、どうしても薄くなる。しかし1割と言ってもクアラルンプール周辺ではもう少し存在感がある。

 もともとゴムのプランテーションなどの労働者として移住(同じ英国植民地内を移動)してきた人たちが大部分だが、英国のシビル・サーバントとしてやってきたエリートたちもいる。今でも弁護士や医者といった知的専門家層と下層労働者に大別できるようだ。ちなみに現在、アンワル前副首相の裁判を担当している裁判官はインド系である。閣僚にもインド人が一人いる。

 南インドのタミール系が多いが、頭にターバンを巻いたシーク教徒もときどき見かける。宗教は主にヒンズー教で彼らは神聖な牛の肉は食べず、菜食主義者も少なくない。ただ同じインド人でもママッと呼ばれるイスラーム教徒もいるし、キリスト教徒やスリランカ出身の仏教徒もいて、一口にインド人という枠組みで括れないほど多様だ。

 インド人はマレーシアでは少数民族で、マイノリティー(少数派)だが、概してフラストレーションが少ないように見受けられる。目鼻立ちがはっきりしたハンサムな男性が多いし、パンジャビ・ドレスやサリーをまとった女性には民族としてのプライドが感じられる。流暢な英語を話す者が多く、態度が実に堂々としている。

 そしてよくよく見るとマレー文明はインド文明と根っこでつながっており、インド文化は現在のマレーシア文化の一部として溶け込んでいるのだ。中国文明とは大違いだ。

 まず、言語。マレー語にはサンスクリット語からの借用語がなんと多いことか。一例を挙げると、bumi(ブミプトラ政策のbumiは大地という意味)、bangsa(民族、国民)、sejahtera(平和、平穏で繁栄した)、rasa(感情、感覚、味、意見)、jiwa(生命、精神、魂)、mulia(高貴な)、suasana(空気、雰囲気)など重要かつ頻繁に使われる言葉はサンスクリットから入ってきているのだ。

 次に食べ物。タイ料理はどちらかと言えば、中国料理に近いが、マレー料理はインド料理に近い。そしてティー・タリッ(甘いミルクティー)、ロティ・チャナイ(カレー汁を付けて食べるインド風パンケーキ)、タンドリ・チキンなどは民族を超えてすべてのマレーシア人の大好物だ。

 その他、インド文化でマレーの風習の中に溶け込んだものも多い。結婚式の時に花嫁が手足の先を赤く染めるイナイの風習(ヘンナという植物から採った紅で染める)は、その一例である。

 文化、芸能面でもかなり浸透している。テレビではよくヒンディー語やタミール語の映画をやっていて、マレー人なども愉快そうに見ていることがある。マレー文学の代表的な作品である「娼婦サリナ」(A・サマット・サイド)は日本軍政の傷跡が残るシンガポールを舞台に繰り広げられる庶民の生活を描いたものだが、華人や中国文化はほとんど出て来ることはなく、インド映画や音楽は風景の一部として登場する。

 インド人はまた古典舞踊や伝統音楽の保存、普及に熱心であり、われわれ外国人もときどき、その芸術性の高い、奥深い伝統芸能を鑑賞する機会に恵まれる。

 もう一つ、余談であるが、マハティール首相も「ほんの少しインド人の血が混じっている」と日本経済新聞に連載された「私の履歴書」(1995年11月)の中で漏らしている、

 こうしてみると、マレーシアにおける「インド」の存在は決して小さいとは言えない。そして大インド文明の七光りを受け、自らも伝統文化を大切にしながら、マレーシアを祖国と心に決めて生きるマレーシアン・インディアンはマレーシア国民の立派な構成員として誇りを持って生きている人々だと言えそうである。