青年海外協力隊OBに寄せる   伴 正一

1.若者達を孤立させているもの

 今の協力隊を21世紀における日本の進路と深いところで関連づけることはできないものだろうか。

 今はやりの新人類(当時)といわれる世代から協力隊への応募者が絶えないで出ている。若い時にしかできないことを! 何か役に立つことがあるのではないか! そんなロマンや使命感を彼らは一個の人間として持ち合わせているようである。マンネリ化した職場や生活から心機一転しようとする気持ちが働いていることもあるだろう。挫折がキッカケの応募だってないはずはない。

 これからは、自分自身の気持ちの中に協力隊をきちんと意義づけた上での応募が増えていくだろうが、何かを求めて!といった、”つかみどころのない動機”の方が依然として多数を占め続けることは間違いなさそうである。

 一見無気力に見える。接してみても白けている。しかしよく言えば以前の世代よりは素直で大らかだ。そんな世代に見受けられる新人類だが、その外殻や内壁を透視して心の中を覗いてみると、そこに”何かを求めている”命の水のようなもの、何かの衝動で燃え出す火種のようなものを見る思いがすることがある。

 今の大人は、個人の幸せ,ひいき目にみてもせいぜい家庭の幸せしか追っていない。しかも利を追う局面にしか生き甲斐を感じない人間だらけである。そんな”光源体”から真新しい世代に訴え彼等の深層心理に届くような強烈な赤外線が出る筈はない。どんなにきれいごとを言っていても、その虚(うつろ)なることを若い世代から見抜かれているのだ。自分たちの光源体の透徹力のなさを棚に上げ、子や孫に当たる世代を「白けの世代」呼ばわりしているのが今の大人ではないか。

2.異民族との2年

 協力隊に集まって来る真新しい世代の多くは、まだ、一個の人間としてのロマンしか持ち合わせていないように見える。彼等にとっての協力隊参加は、一人一人の生き甲斐、自分一個の青春の夢でしかなさそうである。

 しかし、動機づけがどうであろうと、彼等が実践的な人間であり、行動派の人間であることに間違いはない。ここに、まがいもなく「夢があって行動的な」若者がいるではないか。

 こういう若者たちを、日本全体からみれば各論の一部でしかない青年海外協力隊という単一の視野と枠組の中だけで見ていていいのか。日本の、しかも二一世紀のグランド・デザインという壮大な展望の中で捉えて始めて、彼らの存在の真の意味を探ることができるのではないか。

 彼らにとって2年間の行動目標は協力の実をあげることである。しかし、考えれば考えるほど、その実践のなかに、底知れぬ可能性が潜んでいるとの感を深くする。個人の幸せ、家庭の幸せ、グループや地域社会の幸せ、といった、マンネ化した価値観の枠内に留まらず、”超えてより大いなるもの”国と世界に「開眼」するキッカケがこの実践の中に転がっているのではないか。

 異民族と棲み、彼らとともに頭と体を使う2年の日々が、日本列島に意識革命を喚(よ)ぶ呼び水(原体験)になる可能性なきや。

3.人間革命への道

 今の日本の中には、端的な例として、ネパールやタンザニアに住む人々を心の視界内に置いて自分達の幸せを測り、行動を考えるような感覚は芽生えていない。この大切な感覚が欠落していてどうして、識者がいう「世界に貢献する国」、「インターナショナル・マインデドな国民」になることができるだろうか。

 国民意識の中に、いま例に挙げたような感覚を本物の感覚として感性の中に芽生えさせ、熟成させるには、長い静かな人間革命のプロセスが必要だ。このプロセスが進行していて始めて二一世紀は、この島嶼国家にとって、その民にとって、瑞々(みずみず)しい夢多き世紀になり得る。この人間革命が成ってこそ”世界に貢献する”ことを国是とする(もしかしたら)人類史上はじめての国がアジアの東に出現するであろう。

 隊員やOBの深層心理の底にうごめくまがいもない、大いなるものへの芽を見つめていると、これからの協力隊の育て方は、二一世紀における日本の進路を展望した雄大な眺めの中で練り直されなくてはならない。このテーマが取り上げられる時期はもう来ているのではないのか。

 5ヶ条の御誓文にあやかって何かの役に立つことでもあればと考えて五つのモットーを試作した。協力隊よ小成に安んずる勿れと念じつつ。

一、 共に住んで異民族の心を知る。
二、 その住む国を鏡に日本の姿を見る。
三、 こうして、実践裡に、大いなるもの、国と世界に開眼する。
四、 そのときも、そのあとも、おおらかな夢に生き、
五、 静かなる人間革命に先駆ける。

 


父が亡くなった後、天皇皇后両陛下より弔意を賜りました。